『Metamorfosis』

月を見ることが、恐ろしく感じるようになった。
この瞳と同じ色が、この胸を掻き毟る。
夜気に紛れて、何かがこの心を呼んでいる。


「お帰り、エィウルス。今日の狩りはどうだったい?」
声を掛けられ、鮮やかな銀の髪をした青年が振り返る。籠に果実を詰めた老女がそこには立っていた。
「あぁ、まあまあだと思う」
その肩には、弓と、捕らえたばかりの兎と、切り分けられた鹿の肉を掛けていた。
「よく捕れているじゃないか。ウサギに、シカも」
「今日はなんだか気が散って、兎と鹿しか捕れなかった。戻ったら、持っていくよ」
「そうかい、有り難う。おまえにはいつも感謝しているよ」
わずかに腰の曲がり始めた老女は微笑むと、頭ふたつほどは高い青年へと近付く。その頬に手をかざして、細めた双眸でその顔を見上げる。
「…立派になったね。エィリシアも喜んでいるに違いない。お前をここまで大きくできたことを、私はうれしく思うよ」
光を捉えていないのか、その瞳のかわりに皺だらけになった指先が、頬を撫で、肩をさする。
「……本当に、ここを行ってしまうのかい?」
その唐突の問いに、青年のその髪と同じ色の色彩の瞳が一瞬、揺らいだように見えた。一つ息を吐いて、青年が問い返す。
「アレグラ。なぜ、それを…?」
「驚いたかい?…すまないね。私は盲いているぶん、耳がいいものでね。お前と長とが話しているのが、聞こえてしまったのだよ」
「…こうなることは、あなたにはすまないと思ってる。…ここまで生きてこれたのも、全部あなたのおかげなのだから」
「そんなことは無い!……ここの、この村の連中がおかしいだけだ。お前は何も悪くない、いつもそう言っているだろう…!…お前まで、解ってはくれないのかい…?」
「…そうだった。…でも、ここを出ることはもう決めてしまったんだ。行き先も、もう決めてある」
「…そうか仕方がないのかねえ。さすがに、お前はエィリシアが一つ残した息子だからね」
「そういわれても、俺にはわからないな」
「そうかい。でも言って聞かないのは野良馬のような娘だったエィリシアにそっくりだよ。…お前のその、銀の瞳のようにね」
差し出した皺深い手に顔を預け、その光の無い両目を見返す。
「……アレグラ。明日の晩、ここを出て行こうと思う」
「………そうかい」
「あなたのことは忘れない。…この生命、きっと無駄にはしないと誓う」
言って、胸に顔を埋め僅かに震える老女を静かに放すと、その頬に口付ける。
「…エィウルス。同じ血を分かつことはないが、お前は私の息子だ。…お前の行く末にはきっと誰かが待っていてくれるだろう。私の代わりに、守っておやり…」
「…あぁ、きっと…そうする」
離れていく逞しい腕を縋って、手の届かないことを確かめると、老女はその朧な影を見つめ地に伏し座る。
盲いたはずのその瞳に遠く銀の陽炎が揺れる。
「……やはり、夜風がお前を呼ぶのか?……エィウルス」


今から十数年前。
深手を負った騎士が、この村へ行き着いた。
銀の髪と、青色を帯びた銀の輝きを持つ瞳を持った、美しく逞しい青年だった。
瀕死の男を救ったのは、村においても一、二を争う剣の持ち主、森を駆ける少女であった。
傷を癒された騎士は目覚める。正体の知れぬ騎士に村の者は疑念を抱く。自らについて口を閉ざす男に少女は恐れを持つことなく微笑んだ。
男は、いつしか、己の使命をも、忘れ始めていた。

風が、雪を呼ぶ頃。

男自身、己の身の上さえ忘れ、村が男を迎えようとしていた。森を駆ける少女の傍には男が寄り添い、二人は言葉さえなく互いに惹かれ始めていた。

だが、雪を呼ぶ風は、死をも招いた。

静かな闇夜を襲う、銀の閃き。
静寂を打ち破る恐怖に、逃げ惑う人々を次々に襲う獣の群衆。
何事かに気づいたように、男が封じた筈の剣を持ち、獣等の中へと飛び出していく。止めることさえできず、少女はただ、後へ飛び出した。
村の半数の命を奪った程に、獣が問う。
『我等が、裏切り者を差し出せ』
人々は気づく。
獣等が問う、裏切り者とは。
何故にこの村が襲われたのか。

人々が振り返る。

獣等の問う、裏切り者はそこにいる。

そこには、何時しか捨て去った剣を掴んだ、騎士がいた。

人々の内から声が上がる。
『禍を招きしもの』『人の毛皮を被った、あれは獣の類』

少女が叫ぶ。
獣等が、騎士を取り囲む。
人々が、男を憎んだ。

少女が駆け出した時、白い輝きが奔った。

雪が去り、冬が過ぎ、夏の大輪が終わり、再び。

風が、雪を呼ぶ。

人々の深い傷と悲しみが薄らぎ始めた頃。
少女に、忘れ得ぬ奇跡が残されていた。

少女は、胎内で温かく鼓動を始めた大きな喜びに、あの夜限り消えた男の面影を唯々思った。
人々は、甦った恐怖に、再び慄いた。

『獣の子を宿している』

少女は、雪の降りる頃、男児を産み落とした。
月の光を浴び輝く銀の髪。同じ瞳の輝き。
少女は、最後に、その姿に愛する者の面影を見た。

生まれたばかりのその赤子は、まだ若いその母の温もりに、抱かれることは無かった。


月が出ている。

張った弓よりも細い、獣の鉤爪に似た撓り。
青い淡光に導かれ森の入り口へと足を踏み込もうとして、その先駆けの枯木から落ちる影に気を取られ足を止める。
「…アレグラ?」
その熟知した気配に呼びかけると、遅い動きで隠れた影が出でる。
青く浮き描かれた皺だらけの顔。
「アレグラ!…どうして…ここに!」
「…散歩だよ、月が青くてね。それよりも…息子よ、…大切なものを忘れている」
言って差し出した細く小さな二つの手に握られた、一振りの剣。
鮮やかに、白金色に輝く。
輝く白刃が、老婆の爪先から顎にまで届く大剣。
「お前のものだ。おそらく、この剣、お前にしか振るえまい。…取れ」
「俺の…?俺はこんなもの知らない。…一体いつ、どこでこんな大剣を」
「いいから、取れ」
老婆の額前に掴まれた柄を取ると、見た目ほど重くない事に驚く。
柄端に装飾として施された濃青色の貴石が、手の甲へ淡い影を落とす。
「…それはお前の父のものだ。エィウルス。お前の父はこの剣とお前とを残し、エィリシアの元を去った」
「なに?」
「お前には獣の血が流れている。お前の母エィリシアはこの村へ行き倒れた者でも何者でもない。人であり、獣であったお前の父が、何故か同じ獣に追われこの地へと落ちた際、この村の娘であったエィリシアとの間に生まれたのが、お前だ」
「…それでは、俺の母は」
「エィリシアは、お前を産み落とし、姿を消した」
「アレグラ。俺は今まで、行き倒れになり、瀕死で俺を産み落とされたのだと聞かされてきた。それは…違ったのか?」
「…違う。たかが流れ者の子など、皆が恐れるはずがないだろう。お前が、幼いころからそうされてきたように」
「!」
「おおよそ、長がお前を追ったのだろう?お前を産んだエィリシアのように。同じように、お前はここにいようと、何も変わりはしないのに」
「……違う。アレグラ、俺は自分から…!」
「なに?…なぜ!」
問われたまま、空を見上げる。
濃い群青に白く尖った月。
「……月が…。風が、俺を呼び惹いて離さない……」





 高峰の尾根を伝って大陸の裏へ降りる頃、宿を求めて行き着いた町に、不穏な噂が流れ着いていた。
陽も落ち、賑わうのは一角だけ。
 皓々と明かりが灯されていた。
「黒装束の騎士?」
宿屋を兼ねて営む酒場で、体格の良い、頬に傷跡を持った主人が、杯を差し出し頷く。
「ああ、なんでも、化け物並みの強者しかしか入れねぇらしいよ。…にいちゃんはぁー年からするとちょっと若すぎるかもしれねぇが、結構良い剣を持ってるみたいだし、考えてみる価値あるんじゃねぇか?」
「そうだな…」
杯を一口飲み下し答えるのを見て、酒場の主人は慌てた様子をみせる。
「ぁ…あぁ!?悪いなぁ。冗談だぜ、冗談!知らないのか?力が及ばないやつは、その場で殺されちまうらしいんだぜ?」
「殺される?」
 頷いて、主人は問い質すエィウルスの耳元に小声で答える。
「……そうだ。物騒な話だろ?なんでも、そいつらはすぐ隣の大陸にいるっていう、吸血鬼の連中を攻め落とすために創られたって話だ。…中には、人間じゃねぇ輩も混じっている噂だぜ」
人間ではない。
「人間じゃない?」
「ああ、あんたも山を越えてきたっていうが、良く無事だったな。…まあ、雪山だったからな。だがな、この先は用心した方がいい。身の丈が人の倍ほどある獣や、宙を飛び回ったり、身体を自在に変化させることができる化け物がいるらしいからな。…それに、奴等は不死なんだと聞いた」
「不死?死なない、ということか……それは人と同じ姿をしているのか」
「そう、そうだ。…見たことはないか?」
「……ない。…話にはあるが」
「そうか。じゃあ、良いものを見せてやるよ。店閉めたらちょっと付き合ってみろ。あんた気に入ってるんだ。なかなかの男前だしな」
「…?…あぁ」
 黒装束の騎士。
 人間でないもの。
 不死?
「その、隣の大陸にいるという吸血鬼というのは?」
「そのままさ。人の生き血を吸うという化け物だよ。知らないか?今は海伝えに出入りできないように仕切られているが、昔は…今から二、三百年前まではこの大陸からも人間が奴隷として連れ去られていかれたそうだ」
「連れ去られていかれた者は…」
「もちろん、俺たちで言う家畜のことさ。広大な大陸を持つ奴等は、人間を『放し飼い』にしている。不老不死という、奴等の尽きることのない食糧さ」
「……そうか。…知らなかった」
「夢みてぇな話だろ?奴等は馬鹿みたいに繁栄してるって話だぜ。だがな、信じられない話だろうが、この大陸にも化け物はいるんだぜ」
「…そのようだな」
「あんたもなかなか強そうだが…気をつけなよ」

最後の灯り一つを消して、酒場の主人は戸口を閉めた。
振り返って、カウンターに座ったエィウルスに向かって、裏へと繋がる扉を促す。
「こっちだよ。この裏の俺の部屋さ、…ついてきな」
最後に残した小さなランプの明かりを引いて、奥へと主人は導いた。
 宿屋主人の後について開かれた扉を潜ると、闇の中窓一つない廊下を続く。
「ずいぶん、頑丈な扉なんだな」
 今潜ったばかりの閉じられた扉を振り返ると、木造りかと思われたその裏側は、厚く錆付き赤茶になった鉄の板が貼り付けられていた。
「念には念をな。それより、お前さん目がいいんだな。これだけ暗いのに?」
「暗い?」
「暗いだろうよ。ほら、俺はこうしないと見えないぜ」
 言ってランプを掲げると、橙の仄かな光が扉を照らす。
 眩さに目を細めると、錆色と茶が薄っすらと浮かび上がった。
 ランプを手元に戻すと、片鱗だけ見えた扉は闇の中に呑まれた。
 そんなはずはない。
 青白くぼんやりと、戸板に彫られた装飾の溝さえ見えたのだ。
「そうでもなきゃ旅なんかできねぇか。俺も、昔はそうだったのかもな」
「昔は?」
「ああ。俺はこの町にこの店を始める前は流れの行商だったんだぜ。人間のいるところなら、どこまでも行った。さすがに『あの大陸』には失敗したけどな。薬から毒薬、衣から宝石から詐欺まがいの珍品まで。…この奥のブツは、それで手に入れたんじゃないけどな」
「この奥の?」
「何だったかはまだ言ってなかったな。でも大体分かるだろ?窓一つない廊下、鉄の扉と大げさにしてりゃ、どれだけやばいのかは」
「大陸の化け物でも買ったのか?」
「少し…違う。買ったんじゃなくて、奪ったんだよ。それも、生きてるのかしらねぇが、腕だけな」
「腕だけ?」
 主人は軽く一、二度頷いて、扉の前に立ち止まる。
「…ここだ。口さえ無いヤツはとうぜん噛み付くことはない。が、掴まれたら肉が削げるぜ。…じょうだんじゃなく。気をつけな」
 流し目に見るように言い放つと、ノブを掴みつつランプを消す。
 押し開ける扉の向こうは、闇に沈んでいる。
「静かに。…あぁ、今日はおとなしくしてるぜ」
 その目線の先をたどると、壁の隙間を通じた月光が、鉛に輝く何かを照らしていた。
 鎖。
 鎖が幾重にも絡まった塊が、薄明かりに照らされている。
「…?これは…?」
「よく見ろよ、指があるだろ?」
 言われたまま見入ると、鎖の隙間から、茶褐色の尖ったものが突き出している。
 人のものにも似た、だが、伸びすぎている爪。だが、一見して異なる。鋭く伸びた先端にかけて、鷲の爪のように曲がっている。
「なんの…手だ?」
「なんだと思う。その爪の生え際…人の指にそっくりだろ?つくりは、お前さんの指と変わらなく見えないか?」
 近付こうとして、引き止めるように腕を掴まれた。
「あいつをただの手だと思うな。あの鎖でわかんねぇのか」
掴んでいた腕を放し、自分のその袖を捲り上げる。
逞しく筋肉がついた腕に、蛇が這ったようなくぼみと、引き削がれた肌の隆起。
人が引き掻いたように、鋭い五本の線を描いている。
「これはあいつにやられたものだ。今でも、短い袖は着ることができない。こんなもの、客に見せられないだろ?…こんな傷が、足にも、背にも、ほかにもあるぜ」
 塞がり、すでに痛みも無くなったらしいその傷跡を撫で、主人は袖を下ろした。
「…あいつは、…あの腕の持ち主は、俺がこの町に着く少し前、山越えをしていた俺の前に現れた。どこからどう見てもただの、人間だったぜ。山を越えるにしては驚くようなボロを着て、行き倒れそうだったヤツを、俺は拾ったんだ」
「どんな奴だ?」
「金とも茶ともいえない髪の、俺と変わらないくらいの若い男だった。どこから流れてきたのか擦り切れていたり、薄汚れて、ところどころ血が染み付いているような物騒な身なりだったけどな。…そいつを拾って、食い物だの、薬だのを与えてやったんだ。…だが」
 主人は袖に隠した傷跡を擦る。
「…やつはどこまでも化け物だったんだな。寝静まる夜中を待って、俺を喰おうとしたんだ。もう一つの姿に変化して、俺の喉に噛み付こうとした」
 もう一つの姿。
主人の言葉に反応するように、鼓動が一つ耳を打った。
「…どんな姿だったんだ」
「身体つきは人間だったよ。ただ、全身が獣のように毛で覆われていた。目が青く光って、口からも、でかい牙が覗いていた。…間一髪っていうんだな。目を覚ましてみれば圧し掛かられて、手近にあった剣を振り上げた。手応えと同時に退いたのを見て、逃げ出した。走って、走って、痛みに気付いて立ち止ると、こいつがまだ肩の肉を掴んでいた」
 拘束したその「腕」を見下ろして、痛みを思い出したのか、傷跡を隠した肩を掴む。
「腕だけで動き回る化け物がどこにいるんだよ。無理矢理剥がそうとすればこいつはさらに爪を立てた。結局、俺の肩の肉を半分掴んだまま、こいつは離れた。…まったくの化け物だ。衣で雁字搦めにして、夜が明けるのを待って元の場所に戻ってみると、荷物はそのままだった。寝ていたところには血が飛び散った後があった。…後だったのは、あいつが舐めていったんだな。その後、もうどこにも見当たらなかった」
 見つめていた腕に背を向け、主人はこちらを見る。
 その背後で、鎖から覗く指先が震えた。
「……おい!」
「?なんだ……」
 ウサギが飛び上がるように、鎖を巻きつけたままの指先が跳ね上がるのを見た。
 はっきりと、その長い爪が主人の腰を掴もうと伸びるのが見える。
 鎖が擦り合う音が耳を触る。
 呼びかけた主人が気付くその前に、己の手がその鎖の塊を掴むのが見えた。
「…っ!なんだ!?何をしている!?」
 瞬く間に背後へと飛び出したエィウルスの影を追って、主人は振り返った。
 見れば、鎖につないだ腕を裏返しに台の上に押し付けている。
 両手で、一杯に力を込めているのか、それでも鎖から覗く指先が押さえつける手を狙い、その爪がエィウルスの肌に食い込む。
「…、お、お前…いつの間に……おい!…放せ!…おい!」
 制止しようと呼ぶが、押さえつけたままエィウルスは動かない。
「…おい…!…もういい!…おい!ど、どうした……!?」
 その肩を掴んで引き向けると、主人は息を呑んだ。
「…っ…お前…」
 深い銀に輝く瞳に、渦巻くような青。
 どこかで見た、この青色。
「…っ!」
 我に返ったのか、掴んでいたその塊を放し、エィウルスは後退く。
 鎖を絡めた腕は獲物を失ってなお、派手な音を鳴らし跳ねていた。
「…おい、正気か?」
「…ぁ、あぁ。少し気が動転した。危なかったな」
「あぁ、悪い。あれほど自分で気をつけろと言っておきながら。大丈夫か?少し、手を…」
 言われて見る、掌を切られている。少し深いのか、押さえた指の間から血が溢れる。
「大丈夫だ。…本当に、動いたな」
「言っただろう。自分でも、とんでもないものを持っていると思うぜ」
言いながら、どこから出したのか布切れを差し出した。
それを受け取り掌に巻く。まだ暴れている鉛色の塊を見つめた。
「…まだ見たいか?」
「…いい。落ち着いたころにまた見せてくれ」
「そうだな。…部屋に戻る前にもう少し飲んでいくか?」
「いや…もう休もうと思う」
「そうか。…顔色が悪いんじゃないか?」
「…大丈夫だ」
 扉を開け出ていく背について、宿屋の主人はもう一度部屋の奥を振り返った。
 まだ、鎖が転がる音がする。
 一時の緊張が消えていくのを感じながら、主人は、傷を負った掌をおさえたまだ幼さの残る青年を再び見る。

 あれを押さえつけるにしても、尋常な腕力ではない。

部屋の前まで見送った宿屋の主人に別れを告げると、部屋に入り、そのまま寝台の上に転がる様に倒れた。
 衣を脱ぐと、その痛みを思い出したように、血の滲み出した掌の布を剥がす。
 溢れる血を舐めるように、傷口へと口を付ける。
 微かな痛みと共に、口に血の味が広がった。
 あの腕。
 伸びた鋭い爪。密に生えた獣の毛。金とも、茶とも見えたのは、人の姿であったとき、髪の色がそうだったからなのか。
 人のものから獣に成り変わる瞬間を、そのまま留めたような形。
 人であり、獣であった。
 アレグラに言われた事が本当なら、自分は。
 あれが、あの獣に変化するちが、自分にも流れているのか。
 舐めていた掌を翳すように見る。
 長い指の、少し大きい位だが、腕も、足も身長に合った大きさだ。爪も、通常に生えている。
 この手も、変化してしまうのか?
 この髪と同じ、銀の髪に覆われて。
「…俺は…」
 あの暴れる腕を押さえて、気が遠くなりかけた。
 気絶などではない。はっきりと、意識が残っていた。
 ただ。
 鼓動が、耳を煩いほど叩いていた。その鼓動に、徐々に身体を乗っ取られていくような感覚に囚われた。 あの宿屋の主人に呼び止められて、それが冷める様に退いていった。
「…俺は…獣になるのか…?」
 月が何かを囁く様に感じるのも、風に招かれる感覚も。

 身体の奥深く。獣の血が沸いているからなのか。
 いつか心まで血に侵されて、あの腕の主の様に、人の血肉を貪るのか。

 顔も、名さえ知れない父親は、今、どこにいる。
 やはり、人を喰っているのか。
小さな町には珍しい喧騒に、目が覚めた。
起き上がり、窓辺に近付くと、町人達が一方へ向かい走っている。
「…よう、起きているか?」
扉の外で、ノックと共に宿屋の主人が声をかけてきた。
鍵を外し、扉を開ける。
「何かあったのか?」
「…ちょっとな。町でとんでもない殺しがあった。俺も様子を見てくるから、店を空けようと思ってな」
「殺し?」
 宿屋の主人は神妙な顔になり頷く。
「分かると思うが、この小さな町で殺しなんかあるもんじゃない。それも、聞いた様子じゃ、ただの殺しじゃないようなんだ。…あんたにも昨日見せたが、…ああいう輩にやられたような惨たらしい有り様らしい」
「…俺も見てかまわないか?」
「あぁ…、だが、事が事だからな。この町のもんじゃないあんたは止しておいた方がいい。何を言われるか分かったもんじゃない」
「…そうだな」
「後で教えてやるよ。悪いが下の店に朝食を置いておいたから、勝手に喰っておいてくれ」
「…わかった」
殺し。惨たらしい有り様。

店番をしつつ、食事をしていると、表の戸を開き数人の男が入ってきた。
集団で合わせたものなのか、どの男も旅をするような格好の、頭から黒褐色の外套を被っている。
先頭の、金の髪をした男が、エィウルスを見るなり、頭巾を取り口を開いた。
「ここは宿のようだか、空いているか?数日世話になりたい」
「…主人は出かけている。もう少し待てば戻ってくると思う」
「そうか。なら、待たせてもらおう。…入れ」
 引き連れた男たちは従うように、物音さえ立てずに店の中に散らばる。
 食事の済んだ皿を下げ再び椅子に着くと、待っていたように隣に金髪の男が座った。
 よく見れば、自分と同じ年頃に見える。
「あんた、この町の者じゃないな?」
 眼を合わせた途端、不思議に人懐こく見せる薄い笑みを浮かべて、口を開くなり男は言った。
「そうだ。そういうあんたも何者だ。あんな大勢引き連れて、しかも、揃いの格好で」
 其々に散った男たちが、会話に気付き、一斉にこちらを伺う。エィウルスが気にも止めない素振りで見返すと、金の髪を揺らして男が吹き出した。
「…悪いな。どうも連中は柄が悪い。…おい、変なマネはやめろ。ここでは客らしく振る舞え」
 軽く叱責を飛ばすと、手で払うように男たちを遠ざける。
「俺達は山狩りをしながら流れている。この町も襲われたと聞いて、今しがたここへ着いたばかりだ。…俺の名は、ディーグだ」


「じゃあ、あんた達が山狩りに来たっていう連中かい?」
「おい…主人。連中ってのはやめてくれよ…それじゃあ俺はあいつらと一括りみたいだろ?」
「みたいじゃなくて、そうなんだろう」
「違ぁうー…あっと、もう俺はいい。やめとく」
 飲み空けた杯に更に注ぎかけた主人を止めて、席を立ち上がる。そのまま、外に続く戸に向かって歩き出す。
「どこへ行くんだ?」
「ちょっと酔い冷ましに。こんなじゃ仕事にならないぜ。お前も来いよ、エィウルス」
 ひらひらと手を招かせて、悪戯気に笑っている。
「恐いか?…この町には、獣がいるからな…」
 ちら、と流された目が、薄明かりの中に青く見えた。一緒だけ、鋭く。
「……おい?」
「だけど、俺がいるから大丈夫。守ってやるぜ…?」
淡い光が跳ね返ってそう見せたのか、笑みを浮かべたその瞳がもう一度開かれると、ただの酔っ払いのものに戻っていた。
 一、二歩エィウルスの元まで戻り、その胸ぐらを掴むと強引に引っ張る。
「主人…?」
 困ったように返り見ると、苦笑して頷き返される。
「いい。まだ店は開けといてやる。遅くならないうちに戻って来いよ」
「悪い…この酔っ払いをなんとかする…」
「あぁ、気をつけろよ」
 酔っ払いとは何だ、と文句をつけるその背を押して出ていく後ろ姿を見送って、主人は静かに笑った。
 やはり、同じ年頃の者がいるだけで違う。ここについた頃は、何か思いつめた陰が見えていた。
 だがこうしてみると、まだ若い、ただの少年だ。

涼しい外気に触れると、押し進めていた体がふらりと傾いた。
「おい、大丈夫か?」
「はは…だいじょうぶ、大丈夫だ。ちょっと、久しぶりにふざけ過ぎた…。なんていうか…変な偶然でも、ここに来てよかったぜ」
 なぁ、と向き直るなり両肩を掴まれる。微睡んだように薄笑いを浮かべ、抱き付かれた。
驚いてされるままにしていると、背に回された手が髪を掴んでいる。
「お前は…どこから来たんだ?エィウルス」
「そういうお前はどこだ?」
「悪いが…知らない。俺は今の主に拾われたんだ。赤ん坊の頃に。以来ずっと、あいつの下で働いている。やりたくもない、山狩りなどをさせられて。エィウルス、お前は」
「…ここからずっと北の端で生まれた。俺を産んだ母親も、父親も、どこで何をしているのか、知らない。顔さえ知らない。冬が終わるのを待って、今まで育った地を出てきた」
「行くアテはあるのか?」
「ない。ただ、もっと、他の地に流れて行こうと思っている」
「そうか」
 銀の髪を摘まんで、月光に透かし見るようにしていたディーグが、その肩に項垂れた。
「おい?こんな格好で寝るなよ?」
「悪い…お前の肩…居心地が良いんだよ、なんだか…」
 ふにゃふにゃと話すその顔を見ると、穏やかに眠りにつこうとしていた。仕方なくため息を一つ吐くと、その場にたったままその体を支えた。
「立ったまま寝るなよ…」
静かに寝息が起こり始めたのに気付き、呆れて辺りを見回す。このままの格好でいられる筈がないと、宿に無理にでも引き連れてでも行こうと振り返る。
 離れた闇の中に宿屋の明かりを見つけて、抱えた体を揺すろうとした瞬間。
 何かが、鼻先を掠めた。
「…?これは?」
 どこかで嗅いだ匂い。鼻を突く、鋭い錆のそれに似た…。
「…血の匂いだ」
肩に顔を埋めたまま、ディーグが低い声を上げた。
「!…起きたのか?ディーグ」
その顔を覗くと、先程までの酔いの回った瞳ではなく、闇さえ見渡しかねない輝きを潜めて、辺りを見張っている。
「…ディーグ?」
「お前は宿に戻れ、エィウルス。どうやら、今日も狩りをしなければならないようだ」
「狩り?この血の匂いか?」
「あぁ。お前、よく分かったな」
預けていた身を離すと、ディーグはその懐から短剣を抜き出した。肩の辺りまで掲げると、
白い刃へと月光を浴びせる。煌々と反射した光が刃から放たれると、遠く彼方に見える宿屋の
灯りが消えた。
「…何をしたんだ?」
「酒も入ってるんじゃ、一人で動けないからな。一緒に来ただろう、仲間を読んだんだ」
宿屋の方を見守ると、闇が蠢くように、何かが近付いてくる。
目を凝らすと、それは黒い外套を被った男達である。
土を踏む音さえも立てず、息を殺した様に黒い塊となって来る。
黒装束の。
まさか、これが?
「お前には護衛を付ける。主人と共に息を潜めて夜を明かすんだ、エィウルス。…アリガス、お前が行け」
男達が持ってきた揃いの外套と、長剣を身に付けると、傍らに佇んだ一人に声をかける。
アリガス、と呼ばれた男は返事の代わりに外套の中から黒の革手袋に収めた手を差し出した。
「アリガスは宿屋を護り、他の者は町の包囲と直撃とに別れることにする。標的は見つけ次第処分しろ」
ディーグの指揮が言い終わると同時に、男達が再び闇の中に散っていく。傍らにアリガスと呼ばれた男を引き連れたまま、エィウルスは残ったディーグを見つめた。
気付いたディーグが微笑を浮かべる。
「…どうした?エィウルス」
「…お前は…」
「宿に帰ったら話してやるよ。早く、行け。襲われるぞ」
「…わかった」
何も言わず影の様に寄り添うアリガスを連れ、宿屋を目指す。
暗い月光の闇に埋もれた宿屋の扉が見える。
再びディーグを顧みようとした瞬間、大気が揺れた。
「…?…っ!!」
獣とも、人のものとも呼べぬ咆哮が轟いた。
傍らに添ったアリガスが一瞬にして消える。
同時にすぐ間近に白の閃光がはしり、剣を弾く様な音が響いた。
「な…に…っ?!」
見れば剣を抜いたアリガスの影の向こうに、金褐色に輝くものが見えた。
そして、二つの青。
低い、唸りの様な声が響き、同時に、闇の中に青白い尖った牙と、真っ赤な口が開かれた。
これが、獣?
「逃げるのだ!…早く…!」
思わず見入ったこちらに、アリガスが初めて口を開いた。その隙を突いた、得体の知れない獣が腕を振り上げる。
「ぎゃ…っ!!」
どん、と重い音と共に、一瞬の叫びを上げ、アリガスの体が弾き飛んだ。
狙ったかの様に飛んできた肉体をかわすと、地に落ちたその顔には生気が無い。首が、千切れる程に裂け、血が吹き出した。
「……っ」
すでに助からない事を見取り、獣へと向き直る。獣は新たな獲物を見つけたかのように更に低く唸り、一歩、また一歩とエィウルスへと近づいた。
薄闇の中、仄輝く青い双眸が真っ直ぐにこちらを狙う。
黒い闇を纏った姿がぼんやりと形を見せる。
金。いや、褐色。
輝きを放ち滴るのは、幾多の獲物の血。
剥き出した牙を見せる様に、薄く開いた口元から低い唸りが響く。
「…おえ…は…」

月光に象られたその輪郭に、腕が一つ足りない。

シュ、と風を切るような音と共に、白い煌めきがはしる。
がちん、と剣が切り結ぶ音と火花が散り、鋭い爪が土を掻く音が響く。刹那、再び土砂を踏
み締める音が僅かに離れた場所で起こる。
獣の脇から斬り込んだ影が、獣と、こちらを真分かつ様に立ち聳えた。
後を追って来たように、次々に闇が取り囲む。
「ディーグ…!」
呼ばれた影は振り向かず、飛び込む姿勢を取り剣を構えた。
「…エィウルス!中へ入れ…!!」
 周りを囲んだ男たちの影によって、ディーグの姿は見えなかった。
 外套を翻し、一人の男が振り返った。
 その目は、闇の中に赤く、輝いていた。
 人間ではないもの。
「…ディーグ…」
 お前も、またそうなのか。

 獣が咆哮を上げた。同時に、白い閃光が奔る。
 焼きつけるように瞳に映しながら、エィウルスは宿屋へと傾れ込むように、入った。


幾程の時が過ぎたのか。
徐々に獣の気配も、男達の気配も、遠のいていた。
宿屋の主人も、エィウルスも、闇の中ただ何も語らず、外の気配を聞いていた。

そして、扉が開かれた。
「ディーグ…!」
 金の髪に赤い血を滴らせたディーグが、そこにいた。
「…逃した。負傷者も出た。主人、悪いが、薬はあるか」
「あっ、ああ」
呆然としていた主人は、気を取り戻し、奥への扉へ駆け寄った。
 ドアノブを掴んだその瞬間、ディーグが静かに口を開いた。
「…主人。ここは獣の血の匂いがする」
「…!」
 明白な動揺を示す主人に、杯を仰ぎつつディーグが告げる。
「それが、あいつをここに呼びつけた原因だ。…主人、それがどこにあるのか、教えてもらおう」
「それは…」
「あいつは自分の腕の切れ端に惹かれて来たんだ。もう一度手に入れたところで、繋ぎ合わせることなどできやしないのに。まずはそれを始末しなければ、いつまでもあいつはここにやって来る」
「…あんた達、一体何者なんだ」
「……。『幻朧』…って言っても、知らないだろ」
 主人が眉をひそめるのをエィウルスは見た。
「…俺達は、あんた達人間には無用だ。あんた達は知らなくていい、その名の通り、得体の知れない、物騒な連中。それだけだ」
 大陸の化物を、狩る連中。
 人ではない、化物の血を有する者も混じっているという。

『幻朧』。

 先程までの無邪気さなど、どこかへ失くしたかのように、ディーグは続けた。
「明日の夜、この宿で迎撃をする。構わないな?主人。これ以上、死人を出したくなければ」
 震える唇で、主人は声を発した。
「……本当に、化け物ってのはいたんだな」
 ディーグは、首を傾げた。
「あぁ、俺も、含めて、だがな?」
 無言でディーグを見つめていたエィウルスに、ディーグは振り向いた。
「明日、全てを教えてやる。今日は、休め」
言い終えて立ち上がったディーグが、不意に傾く。
「おい…!」
 倒れかかったその身体を受け止めると、噎せ返るような血の匂いが立った。
「怪我を…?主人、薬と、…医師はいないのか?」
「…待ってろ!」
「いい!大丈夫だ、言ったはずだ。俺もまた化け物だと…!」
 ディーグは外套を投げ、真っ赤に染まった衣を見せた。無残に引き裂かれた痕。
「…っディ…」
「見てろ、これが俺の正体だ」
 裂かれて、血の滴るその傷跡が、生き物のように蠢いた。
「…俺は…死なない。死ねないんだ。わかっただろう?」
 ディーグが喋ると同時に、無残な傷跡はすっかり綺麗に無くなっていた。
「ディーグ…だが…」
 主人が呼びかけると、ディーグの首がかくりと項垂れた。
「ディーグ…!」
「大丈夫だ。息はしている。主人、部屋へ…」

 死ねない。
 ディーグを部屋に運びながら、エィウルスはその真意を理解できずにいた。




 夜が明けていく。
 紫の雲が薄れ、眩い光が空を染めていくのをエィウルスは見ていた。
「…エィウルス」
 ふと名を呼ばれ、見れば、寝台に横たわったディーグが目を覚ましていた。
「…傷は」
「…もう一度見るか?」
 ディーグは微笑を浮かべ、胸元を開けた。
「…あまり驚かないんだな」
「あぁ。驚くほど、いろんなものを見たからな」
 ぷっとディーグは吹き出した。
「お前、素質あるぜ」
「あぁ、そうかもな」
 新しく用意した衣を投げつけると、ディーグは起き出した。
「見せてやるよ。俺の、秘密を」
「秘密?」
 ディーグは、首に巻かれた布を、乱雑に剥ぎ取る。
 そこに現れたのは、文様。
 よく見れば、それは刺青だった。
「月と、狼。これが俺に与えられた唯一の弱点だ」
「狼?」
「月は、『幻朧』。狼は、俺だ」
「……お前」
「昨晩、見ただろう。…俺も人の姿を借りた、化け物だ」

 人であり、獣であった。

 アレグラの言葉がよみがえる。
「どちらが、本当の姿なんだ」
「面白い事を聞くなぁ、お前。…そんなの、知るか」
「そうか」
「それよりも、さ、朝飯。朝飯。主人にも侘びないとな」
先立ってディーグが部屋を飛び出した。
その後ろ姿は、ただの少年に戻っていた。

夜が、迫っていた。
殺された町人と、アルガスの埋葬を終え、夜の支度へと酒場へと戻った刻限。

 酒場の扉が静かに、音もなく開かれた。
「酒を…くれ。主人…」
 男が一人、ふらふらとした足取りで入口を踏んだ。
「あぁ、そこに座んな」
酒場には主人と男、二人だった。

その血の匂いに、主人は気付かなかった。
右の腕が、無い事にも。

「上等な葡萄酒が手に入ったんだ。飲んでくれ」
 客向けの笑顔で、杯を渡した主人が、動きを止める。
 利き手の右手首を、掴まれていた。
 その手は、傷だらけで、金とも褐色ともいえない毛で、覆われている。
「その腕の方が、俺には…いいなぁ…?」
 杯が落ち、赤い飛沫が床を染める。

 主人は、ありったけの悲鳴を上げていた。

 それは合図の様だった。
「待っていたぞ、この化け物が」
 男の背後で、ディーグが静かに囁いた。剣を振り被り、男へと下ろす。
「うぉおおお、おおおお!」
 寸前で剣を避け、男は立ち上がった。
「おおおお、俺の、うううう、腕ぇええ!」
「燃やしちまったよ、そんなもの」
「おおおおおお…!」
 振り落とされるように倒れた主人を、黒装束の男達が囲む。
「連れて行け!」
 ディーグが指示を出すと、黒い闇の様に男達は動いた。
「さぁ、俺と、お前だけだ。お前の腕を焼いたのもこの俺。どうする?」
「おおおお!……お…ぉ…?」
「血…ち、…ちの…匂い……」
 男が、ディーグから気を逸らす。
「…?はぁ?」
 次の瞬間、猛然と、男は外に飛び出していた。
 
微かな、エィウルスの血を嗅ぎ取って。

 取り残されたディーグは、後を追う一歩を踏み出しながら、エィウルスの右手の傷跡を、思い返していた。
「…あいつ、怪我を…!」

月が、ゆっくりと昇っていくのを、エィウルスは見ていた。
別れは、告げずに去ろうと思っていた。主人にも話をつけ、内密のうちに出るつもりだった。
振り返れば、宿屋があるあたりには何も灯されていなかった。
今頃、ディーグ達はあの化け物と、対峙しているころか。
『幻朧』。
狼へと変わるもの。
不死のもの。

月を見上げると、己と同じ銀の輝きが目を射した。その目映い光を、何かが遮った。
「な……っ…」
 青い二つの輝きが、目前に迫っていた。
「…ううう、…腕だ!腕をよこせ、ぇええええ!」
 人に戻り切れない、獣が、立ちはだかっていた。
「エィウルス…!」
背後で、ディーグの叫びが聞こえた。
 だが、振り返ろうとするその胸には、獣の爪が、深く、突き刺さっていた。



胸を裂こうと、獣が爪を立てる。
シュ、と音を立てて、血の滴が飛んだ。
痛みよりも、灼熱がはしる。更にその爪が傷を抉り、肉を割いて奥へ侵入する。
「…っ…ぁ…くっ…!」
「エィウルス!!」
 ディーグの叫びが聞こえる。
 どくん。
「…っ…!」
 胸の奥で、何かが重く響いた。
 どくん。
「…っ…ぁ…ぁ…っ」
 重く、鈍い鼓動が、胸から、腕、喉、全身に拡がる。息の詰まる様な感覚に、胸を抉るその腕を掴む手に力が籠っていく。
 その掴んだ指の先、爪が、徐々に伸びていく。その肉を裂いて、裂目を蝕むその手を押し上げる。
 その変化を覚えるよりも、全身を打つ鼓動が身体を侵し、何かが、四肢を支配していく。
「…あ…あ……ぁっ!ぁあああああああっ…!!」
ただ、その鼓動から逃れる様に、叫びが喉を駆け上がった。
人間のものに聞こえた叫びは、その喉に噛み付く寸前、獣の咆哮に変わっていた。
月光に浮かぶ銀毛に、血が飛沫飛ぶ。
喉笛を深く噛まれた金褐色の獣が咆哮を上げ、血を吹き散らして逃れようとする。まだ人の形を留めたその首は、完全に、丸ごと噛まれていた。
「…エ…ィ…ウルス…」
その変化を目の当たりにしたディーグが、握ったままの剣をそのままに、見入る。
銀の狼。
首を噛まれた獣の瞳から、徐々に生気が失われていく。
傾くその体と入れ替えに、銀に輝く体がのし掛かる様に起き上がった。
完全に力を失ったその獣の首を、更に深く噛み、捩る。血が舞い上がり、食い千切られた首が飛んだ。
「…エ…!」
獰猛で、その力は計り知れない。
これは、両刃の剣。
屍となった獣を捨て、銀の瞳がディーグに向き直る。
唸りも上げずに、その銀の瞳が低く見据える。
察知した男達が、それを取り囲む。
「…よせ!手を出すな…!」
ディーグの制止を聞くも、退く事なく、剣を構える。銀の狼は、囲まれた事が分かっているのか、ただ、ディーグを見つめる。
その胸からは、まだ血が滴っている。
「…エィウルス。俺と共に来い」
剣を投げ捨て、一歩、近付く。
「…お前が変わる時は俺がそばにいてやる。…必ず。お前が我を失ったら、俺の腕の中に戻れ。…俺が必ず、お前を元に戻してやる」
言葉の意味を解しているのか、否か、動かない。ただじっと、その瞳を見返している。
「…来い」
長身だった姿のまま、変化したその姿さえ、通常の狼の倍の身体をしている。
ゆっくりと近付くディーグを見たまま、エィウルスは動かない。
「お前が受けた傷は、俺が癒してやる」
そっとその体に腕を回し、抱き寄せると、体が震えた。
「…エィウルス」
徐々に体の縁取りが変化し、人の形に戻っていく。
腕の中で仰け反るように震え、体を包む銀毛が、霧のように霞んで消えていく。
「…ぐ…っ…ぁ…あ…」
苦しげな息を吐き出し、完全に人へと戻った身体がディーグの胸に凭れる。
「…ディ……グ」
「エィウルス」
「…俺…は、けも…の…に?」
「あぁ。お前、強ぇよ。でも俺がちゃんと躾けてやるから、…安心しろ」
最後まで聞いたか、うっすらと微笑を浮かべて、胸に抱かれたままその目蓋が閉じる。
「やっぱり、ここに来て…よかったよ。エィウルス」
その肩の居心地の良さは、やっぱり間違いじゃなかった。
お前が危うい時は、必ず、傍にいてやる。


銀の狼。
 

『Metamorforsis』 END

えっ、エーと…新作『久遠の恋人』の番外編です。あのー一応述べておきますが、エィ君とディー君が恋人って話じゃありません。(汗)