王子様~『真円の月が纏うもの』超・番外編~

 私にも王子様がいるって知ってた。
 お父様は隠していたけど、私知ってる。いつも窓辺からこっちを見てる綺麗な目をした王子様。

「ねえ、緋龍。わたし、あなたの事が好き!」

++++++

「芙蓉!どこにいるんだ!?芙蓉!!出てきなさい!!」
 広い玄関フロアに男の声が響く。
「芙蓉!」
 男は、焦っていた。
 数分、目を離した隙に車の後部座席から愛娘の姿が消えていた。
 バックミラー越しに見えたのは、屋敷の玄関の中に吸い込まれていく娘が着ていたワンピースの裾のレース。

 しまった。

 やはり、ここへは連れて来るべきではなかった。
 悔やむよりも先に、追って屋敷のドアを開け放した。
「芙蓉!!」
 芙蓉の父、藤沢紫有は辺りを見渡した。広いロビー。向かって、左右に伸びる階段のどちらか、あるいは、召し使いの詰め所、厨房へと続く中央の扉。
「芙蓉!!」
 左の階段か、中央の詰め所であってくれ。
 紫有は願った。

 ギッ。

 右の階段が、軋みを上げた。
「!!」
 やはり、右に。
 右の階段は、やはり隠して造るべきであった。
 だが、「あのお方」の申し出には、絶対でなければならなかったのだ。
 たとえ、このまま、愛娘が最悪の状況になろうとも。
「芙蓉!!」


 お父様が気がついた。
 この木造の階段、もっと頑丈に作ってあればよかったのに。
 どうしよう。
 でも、このふかふかの絨毯のせいで足音がしない。
 『王子様』の部屋を先に見つけたほうが、勝ちだわ。

 芙蓉は最後の一段を昇りきると、迷わず目の前のドアノブを握った。
 小さな手で扉を勢い良く開いた。
「芙蓉!!」
 背後で父親の声が響いた。見つかったかと、身体が竦んだが、そのまま部屋へ飛び込み、閉めた。
 目の前に、鍵があった。
 ラッキーとばかりにそれも仕掛けた。
「はぁ…」
 疲れた。
 やっぱり、お城は、簡単に入れない。
 芙蓉は扉を背にすると、ずるずると床に座り込んだ。
 一息つくと、周りを見渡した。
 黒い天井。
 黒い壁紙。
 天蓋つきのベッド。
 眩しいくらい大きな窓。
 
 窓の前に、人影。

「きゃ…っ!」
 遅かったが、手で口を覆う。
 見つかった。
 外からの光のせいで、よく見えない。
「ご、ごめんなさい…!わ、わた…」
「芙蓉!?」
 背後の扉の向こうで、父親の声がした。
 逃げられない。
 二択を迫られた。
 いや、選択肢などないのかもしれなかった。

 芙蓉は、窓辺の影へと駆け寄った。

 はっきりと、影は輪郭を正した。
 長い髪。
 白い肌。
 髪と同じ、黒の瞳。
 長身の男が、そこには立っていた。

 王子様。

 芙蓉は、声にならぬほどの呟きをこぼしていた。
 
 窓越しに見ていた、その綺麗な瞳。

 芙蓉は時が止まった様な錯覚に陥っていた。
 佇んだその姿は、黒い百合のようだった。

「緋龍様!!失礼いたします!」
 背後で、父親の声が響いた。
 芙蓉はいよいよ追い詰められた。
 どうしよう、と芙蓉は『王子様』に目で訴えた。
 『王子様』は、不思議な瞳をしていた。
 芙蓉は今まで、こんな表情をした人間に会ったことがなかった。

 飛び込んできた見ず知らずの娘を叱るわけでもなく、歓迎するわけでもなく、驚いた様子もなかった。

 ただ静かに、懐かしむ様な瞳が、こちらに向けられていた。
 寂しげな色を浮かべた瞳が。

 芙蓉は悟った。
 やはり、自分はここへくるべきだったのだと。

「緋龍様!」
 父親の声が一層近づいた。
 『王子様』は、何も言わず、芙蓉の脇をすり抜け、扉の前に立った。
 芙蓉はそれをベッドの下に潜りながら見た。
 
「どうした?紫有」
 鍵を開け、扉を開けると少女の父、藤沢紫有が息を乱して立っていた。
「もっ、申し訳ありません!今しがた…わたくしの娘がこちらに…!」
 緋龍は目を細めると、一つ息を小さく吐いた。
「ここにいるのは俺だけだが…?」
「えっ…し、しかし…」
「…紫龍に会わせるのは面倒だ。悪いがそちらをあたってくれ」
「紫龍様!?…は…、はいっ」
 紫有は、新たに危機を悟ったがごとく足早に去っていく。
 芙蓉は息が漏れるのも恐れ、両手で口と鼻を覆っていた。扉を閉めた『王子様』が、芙蓉の隠れたベッドの下へと近付く。
「あなた、ひりゅう、というのね」
 ベッドの下から出ると、緋龍は芙蓉の目の高さに合うよう床に膝を着いた。
「そうだ」
 ワンピースの裾に付いた埃を払うように、緋龍はポンポン、と柔らかく叩く。
 その仕草の一つ一つが、絵本で読んだ『王子様』と一緒だと、芙蓉は思った。
 自然と、頬が赤くなる。
「私は、芙蓉、というの。藤沢の一人娘よ」
「…知っている」
「知ってる!?」
 声が上ずった。顔が火を噴いたように熱い。
 知っている。
 知っている。
 知っている。
 芙蓉の胸の中には「知っている」がこだました。
「知ってるって、どうして?」
 やっぱり、『王子様』なのだ。
「いつも車の中から見ていただろう。紫有の車から。お前のことは昔から知っている」
「私のこと、気付いてたの?」
 緋龍は頷き、立ち上がる。
「だが名前は、今日始めて知った。夏に咲く、美しい花の名だな…」 
 芙蓉は恥らう様に小さく微笑むと、緋龍の後を追う。
「ねぇ、どうしてここにいるの?外には出ないの?」
 芙蓉の問いに対し、緋龍は静かに振り返る。
「…おまえは、この瞳が怖くないのか」
 龍の眼と呼ばれる山吹色の瞳。
「……?綺麗だと思うわ」
「身体に、おかしな場所はないか?痛いとか、疼くとか」
「無いわ。どうして?」
「普通の人間ならば、龍になってしまう。この眼は呪われている」
「龍?龍って、ドラゴンとか?この間、お寺っていう所で見た、大きな蛇のこと?」
「そうだ」
「でも…私、普通じゃないってこと?」
「いや、普通だ」
「だって、普通の人間ならって、いま言ったのよ?」
「じゃあ、特別でいい」
「やっぱり、私の王子様なのね!」
「?」
 困惑した表情を浮かべた緋龍をよそに、芙蓉は、一人で頷くと、緋龍の手を取った。

「私の王子様!!」
 
 背後の扉がノックされたのはその直後だった。

++++++

「随分賑やかなお姫様だったね」
 扉の外で開かれている親子喧嘩を聞きながら、斎樹は一つ欠伸をした。
「紫龍。…起きたのか」
「あの子が夏喜のおなかにいた子なんだね」
「あぁ。この瞳を見ても何も恐れない。お前の血が流れている」
「……」
 斎樹はベッドから起き上がると、窓辺に寄る。
「夏喜…」
 芙蓉が生まれるのと同時に失われた命。
 これも宿命なのか。
「俺が会っても、何も変わらないという確信はないのだろう?」
 だから、眠りから覚めた先程の騒ぎにも、黙っていた。
 本当は、攫ってでも、その姿を見たかった。
「芝居上手だな。緋龍、おまえも…王子様?」
 プッと噴き出すと、緋龍は眉を顰め斎樹の顔を見た。
「お前は誰にも渡さないよ。緋龍。俺の、王子様だからな」
「黙れ」
 肩を揺らして笑う斎樹に背を向け、眼下に広がる光景を見た。
 嫌々車に乗る芙蓉がこちらを見た。
 
 ひりゅう。

 小さな唇がそう動いた。そして、ひらひらと手を振っている。
 軽く手を上げると、紫有が会釈をしながら芙蓉を車に乗せた。 

 

 ねぇ?
 あなたは誰?
「俺?」
 少しばかり大きくなった芙蓉がそこにはいた。斎樹は、芙蓉と二人きり、己の部屋にいた。
 天窓から射す月光。
「俺は、斎樹というんだよ」

 ふうん。

 興味が余り無いのか、斎樹ではなく、天窓の月を覗き込んでいる。
 いつから、ここにいるのか。

 それ、鱗?

「…え?」
 不意に訊かれたその手を、隠す。

 紫の鱗?

「ううん、見間違いだよ。何も無いよ。シールが張ってあった」
 斎樹は、隠そうと必死だった。
 子供には、刺激が強すぎる。


 嘘。

 芙蓉は目を大きく見開いた。
「え…?」
 その視線は、隠した手をただじっと追っていた。
「…待って…違うんだ、違……っつ…!」
 どくん、と脈打つ痛み。
 覚えのある、これは。
 隠した手を開いて見れば。
 脈打ちと同時に増えていく紫の鱗。

 嘘。

 開かれた手の甲を真っ直ぐに見つめる芙蓉の瞳が、山吹色に変わっていた。
「芙蓉…どうして…?君が……痛…待って…、ま…」

「待って!!」
「どうした。紫龍」
 視界が急に拓けた。目の前には緋龍の双眸。
 荒くなっていた息を整えると、そこは緋龍の部屋だった。
 カーテン越しに見えるのは夜の闇。
「緋龍、…芙蓉は」
「芙蓉…?」
「夢を見た。芙蓉が龍の眼で俺を見たんだ。そうしたら、鱗が」
 脂汗を拭ったままその甲を見る。
「……夢…じゃない?」
「鱗が…成長しているな」
「どうして…!緋龍?」
 疑いの眼差しを向ければ、緋龍はあっさりと首を振った。
「紫龍、お前は芙蓉に姿を見せない方がいい」
「…なっ、どうして」
「芙蓉がお前の血に目覚めた可能性がある」
「俺の血に?」
 今までニアミスはあったが、絶対的に姿を見せてはならないということか。
「…では、実際に彼女に会えば、俺は」
「完全に変化する可能性がある」
「そんな!」
「まだ、分からない。明日、芙蓉はここへくるだろう。お前を探して。お前は、あの部屋から出るな」
「…嫌だ、と言ったら?」
「それがお前の最期の時かもしれないな」
「……わかった」

 翌日。
 緋龍の言葉どおり、芙蓉は紫有と共に屋敷へ来た。
「お父様、大丈夫よ。私は緋龍に確認したいだけ!」
「しかし…」
 何事かを揉めているようだ。斎樹はドア越しに耳を立てた。しかしそれも、緋龍の部屋に入ったのか、静かになった。

「どうした?芙蓉?」
 緋龍は何時もと変わらず窓際に立ち、芙蓉を迎えた。
「それが…」
「お父様は黙ってて!」
 紫有が切り出したものを芙蓉が断ち切る。
「緋龍が隠していることよ。私、知っているの!」
 緋龍は口元を微かに緩め、首を傾げた。
「私、会ったの!この屋敷にいるわ。隠れてる」
「芙蓉…緋龍様になんてことを…」
 ただただ狼狽える紫有に、クスリと笑った緋龍が部屋から下がる様に促す。
「私、…わたし、あなたはずっとわたしの王子様だと思ってた…なのに…わたし…」
「芙蓉?」
 肩を震わせ、俯いた芙蓉を緋龍は覗き込むように見た。
 震えた瞼が見えたと同時に、芙蓉は、緋龍の両手を取った。
「ふ…」

「緋龍、私、あなたのことが好き!」

 絶句した緋龍と、ただじっとそれをみつめる芙蓉の間に、どれほど間があったか。

「芙蓉、俺には…」
「紫龍さましかいないんでしょう!」
 教えてもいないはずの名が、芙蓉の口から飛び出す。緋龍は思わず目を瞠った。
「…夢で出会ったの。私、不思議とわかった。紫の鱗を持った美しい人。あれが紫龍さまね」
「芙蓉…」
「でも!」
 見下ろした芙蓉の瞳は涙で濡れていた。
「絶対、紫龍さまより可愛くなって、私が緋龍のお姫様になるんだもの!」
「芙蓉、紫龍は」
「いーーーっ!」
 両耳を塞いで、芙蓉は「聞こえない」ふりをした。
「じゃあね、緋龍!わたし負けないって、この屋敷のどこかにいる紫龍さまに伝えておいて!!」
 芙蓉は早口に述べると、ばたばたと部屋を飛び出して行った。
 扉の外では、困惑した様子の紫有の声と、泣きじゃくる芙蓉の声が静かに去っていった。
 部屋に一人残った緋龍は、芙蓉を乗せた紫有の車が走り去るのを見ていた。
「紫龍…お前は…」
「両思いにはなれないみたいだね。俺も、お前も」
 いつの間にか、音も無く斎樹が現れていた。
「お姫様に会うときが、俺の最期…ね」
「紫龍」
「覚悟しておくよ」
 そういった斎樹の横顔は悲哀を宿していた。


 緋龍に愛を告白した芙蓉は、その日を境に屋敷へはあまり姿をみせなくなった。
 時間という感覚。老いの無い姿のまま、幾年が過ぎた。

 時折見えた芙蓉は、斎樹の夢の中で、確実に大きく、幼い少女から成長していた。
 そしてまた同時に、斎樹の紫の鱗も成長をしていた。

「もう、外には出られないな」
 首に巻いた包帯を取り替えながら、斎樹は小さく呟いた。鱗は、手の甲から肩、首へと侵食していた。
「緋龍」
 傍らで斎樹の肩に生えた鱗を見ていた緋龍に、斎樹は向き直った。
「なんだ」
「ここに来てから、俺は外に出たことが無い」
 斎樹の瞳は、真っ直ぐに緋龍の色違いの双眸を見た。
「これは、俺の望みであり…紫龍の願いだ」
「なに…」
「最期に、外で、空の下であの子に会いたいんだ」
「紫龍…それが、どういうことか…」
「分かってる。…でも!」
 ベッドから立ち上がり、緋龍の両肩を掴んだその手は震えていた。
「このまま、夢の中で死んでいくのは嫌なんだ…!!」
「紫龍の願い、か」
 緋龍は目を細め、確かめるように呟いた。
「好きにするがいい。紫龍」
「…すまない。緋龍。また、お前を…」
「お前の裏切りなど、慣れている。また、お前を必ず見つけ出すだけだ」
 項垂れた斎樹は泣いていた。
 記憶が、甦る事が増えていた。鱗が増えるたび、斎樹である前の紫龍、その前の紫龍であった時間。

 だが後悔も、懺悔をする間も無く、時間は、残酷なまでに斎樹を追い詰めていた。

 

 屋敷に一人、斎樹はいた。
 最期の時は確実に、近付いていた。


「緋龍ー?いないのー?」
 芙蓉の声が、屋敷の中に響いた。

 来た。

 これが、最期になる事が斎樹にも分かった。
 今、緋龍は出かけている。
 無人の緋龍の部屋へ、芙蓉が入っていく気配を感じ取った。

 今だ。
 芙蓉に気付かれぬように、使用人の振りをして外へ出るのだ。
 時機に、緋龍が帰って来る。
 芙蓉に会うのはその瞬間だ。

 最期の瞬間。
 成長した彼女は、どんな笑顔をしているのだろうか。
 
 音も無く階段を降り、玄関の扉を開いた。
 新鮮な空気が、斎樹の肺に入り込む。
 どれほどの時が、止まっていたのだろうか。
 二、三歩、斎樹は土の感触を確かめるように踏みしめた。

 ふと、屋敷への林道の向こうに、黒の車が見えた。
 緋龍の乗った、紫有の車だ。
 ゴクリと、斎樹は唾を飲み込んだ。

 

 そして背後では、玄関の開かれる音がした。

 

「緋龍!お帰りなさい!!」
 芙蓉が駆け出したのと、斎樹が振り返ったのはほぼ同時だった。
「芙蓉……」
 走り抜ける芙蓉の目と、斎樹の目が一瞬、交差した。
 芙蓉は、それが誰のなのか認識する前に、斎樹の脇をすり抜けた。
 斎樹は、微笑んだつもりだった。
 だが、それは開かれた唇から発せられた絶叫に掻き消された。
「し…紫龍様…!?」
 車から降りた藤沢が、斎樹の叫びに駆け寄ろうとする。
 斎樹は、震えながら、地面に突っ伏している。その首を、己で絞めるかのような動き。
「やめろ」
 藤沢の肩を、緋龍が素早く掴む。
「し、しかし…!」
「始まった」
「!!」
 藤沢は緋龍の山吹の瞳を見るなり身体を強張らせた。金縛りのように。
「ひ、緋龍…?」
 芙蓉は、突然の出来事に狼狽るばかりだ。緋龍の服の裾を摘んで、震えている。
 人が叫び声を上げ、倒れている。
 だが、父様も、緋龍も、助けにいかない。
 また、一声上げた男は、地面にのたうち、そして動かなくなった。
「おまえは来るな」
 しがみ付いていた芙蓉の手をそっと取ると、藤沢に何事かを囁き、倒れた男の方へ歩いていく。
「緋龍…?…緋龍!!」
 後に着いて行こうとする芙蓉の腕を掴み、藤沢は首を振った。
「この先は、お前は知ってはいけないんだよ」
「…え?」
「車に乗りなさい。早く」
「で…でも、緋龍は?大丈夫なの!?」
「全て、あのお方が知っている。…私達には何もできないんだよ」
「緋龍…ひ…りゅう…」
 その後姿は、どこか悲しげに見えた。まるで、死人を迎えにいくような。葬列の、その姿。
 芙蓉は促されるまま車に乗った。そして、いつまでもサイドミラーを見ていた。
 緋龍がその人物を抱き上げ、屋敷に入るのを、いつまでも。

「…ぁ…ひりゅ……っ…」
「しゃべるな。口の中を切るぞ」
 緋龍の腕の中の斎樹は、身を丸め、ぶるぶると震えていた。緋龍は斎樹の、紫龍の部屋へ入り、ベッドへと近付く。
「お前の望みだ。これが、最期の…」
 緋龍が言いかけたところで、斎樹は顔を上げた。
 山吹色の眼。
 牙だらけの口。
 緋龍の両腕を掴んだ、紫の鱗に覆われた手。
「ち、違…う。ま…だ…!」
「まだ?何を望む?龍化したお前は一晩の命だ。知っているだろう」
「…の、娘を、…私のも、と…へ…!」
 緋龍は目を瞠った。
 芙蓉を、連れて来いというのか。
「お前は…俺を裏切った上に…まだ、奪うのか…」
「それ…で、全ては…揃う。…緋龍。…す…べてが…」
「揃う?…おい、紫龍」
 緋龍の腕を放し、ベッドへ倒れこむ斎樹は、すでに人の形をしていなかった。
 紫の龍。
 紫の鱗に覆われた、人を統べると謂われた龍は、力無く横に倒れた。

 最期が近付いていた。


 報せはすぐに芙蓉へ届いた。
「緋龍が!?私を呼んでる?」
「…そうだ」
 答えた紫有の顔は、沈痛なものだった。
 芙蓉はその顔色から尋常ではない何かを悟った。
「もしかして、あの倒れた人と、関係…あるの…?」
「そうだ。…すべては、あのお方が説明してくださる」
「あの、お方…?」
 一瞬だけ、見えた顔を、芙蓉は覚えていなかった。
「芙蓉」
 眉を顰めた紫有は、真っ直ぐに芙蓉を見つめた。
「お父様?」
「お前に何があろうと、お前は私の娘だ。だから…」
 紫有の、芙蓉の肩を掴んだ手に、力が籠もる。
「必ず、この家に帰って来なさい」
「お父様…?」
「帰ってきなさい。いいね?」
 紫有の眼差しに、芙蓉は息を呑んだ。
 そして、頷く。
「はい。お父様」
「送っていこう。時は一刻を争う」
 芙蓉は紫有のその横顔を見たまま、ただ呆然と、促されるまま車へと乗った。

 静かに、車は走り出した。芙蓉は沈黙の中、そっと夜空を見た。山吹色の真円の月が、空に浮かび上がっていた。それに、紫色に染まった雲が棚引いている。
 真円の月。
 山吹色の。
 瞳。
「緋龍……」
 
『俺には、紫龍しかいない』

 ふと、いつか幼い頃に聞いた緋龍の答えが、頭を過ぎった。 
「…し…しりゅう…さま?」
「どうした?芙蓉?」
 バックミラー越しに、紫有が芙蓉を見つめた。芙蓉はそれを見返す。
「お父様、…あの、倒れたのは…もしかして…」
「緋龍様が、すべて教えてくださる。私は、お前をあの方の元へ差し出すことしかできないんだ」
 ハンドルを握る手が、震えているのを芙蓉は見た。
「お父様…?」
「許しておくれ、芙蓉。…私は…」
「大丈夫よ、お父様」
 芙蓉は硬く締めた歯を微笑みの唇に隠した。
 にっこりと微笑んで見せる。それが裏腹なものであっても。
 
 再び芙蓉が夜空へ目を向けると、車はまもなく、緋龍の待つ屋敷へと着いた。

「お父様はここで待っていて」
「芙蓉、緋龍様は…」
 屋敷の玄関を開けるところで、芙蓉が紫有を振り返る。
「分かってる。…紫龍様の部屋、ね」
「芙蓉…」
 にっこりと芙蓉は微笑む。
「行って来ます、お父様」

 玄関は、重い音を立てて閉じられた。

 誰も、いない。
 女中も、誰の気配も無い。

 耳が、静寂に圧され痛み出す。
 芙蓉は階段を昇り、緋龍の部屋を過ぎ、ただ一箇所を目指した。

 禁じられていた、最奥の部屋。
 禁じられていたのは、この屋敷自体。だが、芙蓉は、幾度も足を踏み入れていた。ただ一つ、この最奥の部屋を除いて。

 緊張とは別のものが、芙蓉を突き動かしていた。

 紫龍。

 やっと、会えるのだ。
 否。
 昼間、すれ違いざまに目を交わしたあの男性。
 顔さえ思い出せない。
 だが、間違いない。

 芙蓉は、そのドアの前に立った。

「芙蓉か」
 
 ドアノブへ手を伸ばした瞬間だった。
 緋龍の低い声が、それを止めた。

「そ、そうよ。私、来たわ。…一人で」

「入れ」

「え…っ…」
 確かに、今、入れと誰かが言った。緋龍ではない、誰か。
 それは、頭の中に、直に響き亘った。
「緋龍…そこに…」
 ドアノブに再び触れようと、震える指を伸ばす。
「入れ」
「!」
 伸ばした指がドアノブを掴む。ガチャリと音を立てドアは開かれた。
 芙蓉が戸惑う間も無く、その足が勝手にその中へ入る。
 肌が粟立った。
 その誰かの声によって、勝手に体が動く。
 芙蓉がその暗闇に飲み込まれると、背後でドアは閉じられた。
「あ…の…緋龍…?」
 部屋の中央らしい場所に、天窓から月の光が注がれていた。
 ベッドと、その傍らに緋龍のものらしい影。
「緋龍…」
 ほっと芙蓉が一呼吸置いた瞬間だった。
「…娘…こちらへ…こい…」
「あ…」
 再び、足が勝手に動き出す。
「どうし…何で、わたし…」
 戸惑いを見せると、緋龍が、手を差し出している。
 その傍らの、ベッドに横たわる紫の輝き。

 紫色の鱗が輝く、龍がいた。

「し…紫龍さま…?」
 初めて目の当たりにするその姿。その美しい鱗。
「そうだ。娘よ」
 牙だらけの口は動かない。
「どこから?声が…」
「紫龍は直接お前に語りかけている。頭の中に、といえば分かるか?」
 緋龍は芙蓉の手を取り、その色違いの双眸で芙蓉を見た。
「娘…おまえは私の血を引く唯一の許されし者だ。喜べ」
 紫の龍は力無く横になったままその山吹色の瞳を動かした。
「許されし…もの?喜ぶ?」
「全てを与えてやろう。私の…すべてを」
 芙蓉は動揺を隠せずにいた。緋龍に助けを求めようとした。だが、緋龍は難い表情のまま、紫龍を見下ろしていた。
「待って、緋龍…?私…なんのことか…」
「紫龍。それが、お前の望みなんだな」
「緋龍…!」
 緋龍が、芙蓉へと向き直る。
 その細長い指を、紫龍の顎下へ伸ばす。
「芙蓉、龍には触れてはならない所がある」
「…知ってるわ。逆鱗、ていうのでしょ」
 そんなの、御伽噺のことかと、迷信やもののたとえだとしか思っていなかった。
 それを、どうしようというのか。
「今から、お前にそれを与える。それから、お前は全てを知るだろう」
「私に…?待って、緋龍。逆鱗ていうのは…」
 緋龍は、素早い動きで紫龍を押さえ込み、その喉元へ唇を寄せた。
「…娘、私の全てを、与えよう…」
 芙蓉の頭の中に声が流れ込むのと、紫龍の目が見開かれたのは同時だった。
 メリメリ、と音を立て、緋龍の唇が紫龍の身体から離れた。

 

 ふよう

 

 月光の中、芙蓉は何かを聞いた。
 人の絶叫のような。
 獣のもののような。
 その洪水の中で、確かに紫龍は呼んだ。
 芙蓉の名を。

 緋龍が、目の前にいた。

 唇に、紫色に輝く鱗。

 緋龍の指が、芙蓉の顎を捉える。

 近付く緋龍の影。

 唇が、その唇を塞いだ。

 

 

 

 


 王子様。

 お姫様は、王子様のキスで目覚めるの。

「ねぇ、緋龍。知ってた?」
 あの瞬間から、変わらないこの姿。
 年も取らず、病気さえしない。
 怪我も、すぐ治ってしまう。

「素敵でしょう?遠い国の昔ばなしよ」
 窓から差し込む光の中、芙蓉は椅子に腰掛けた緋龍へと振り返る。
「芙蓉、俺には…」
「知ってるわ。紫龍しかいないんでしょ?」
 くすくすと笑う芙蓉が、硝子の外にその姿を見つける。
「あ、お父様がいらしたわ…」
 窓の外に手を振って、再び緋龍へと向き直る。
「でも、何敗してるの?緋龍は…」
 芙蓉から目を逸らし、緋龍は一つ息を吐いた。
「さあな。だが、あいつのことは、俺が一番知っている」
 芙蓉は、その山吹色の瞳を覗き、首を傾げた。
「そうかしら?」

 紫龍の全てを受け継いだ今、その秘密を知っているのは芙蓉、ただ一人だった。

 その全てを。

 その唇から。

 

『真円の月が纏うもの・超番外編~王子様~』

 終