『真円の月が纏うもの』 ~傷~

左の目は青、右の目は赤色をした男は、こう申したのです。

「あの月の、母になってくれませぬか」


そしてわれは身篭ったのです。


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「お疲れ様ですー!」
「はいよ、村木君。お疲れ!」
 皓一はアルバイト姿のエプロンを外すと、店長に頭を下げ勝手口から外へ出た。
「うわ…寒…!」
夜の外気は冷たく、頬をピリリと刺す。
見上げると、真ん丸の月が白く闇に浮いている。
「お腹空いた。早く帰ろ」
ダウンジャケットのポケットから鍵を取り出すと、自転車に乗り、勢いをつけこぎだす。
 皓一のバイト先から自転車で10分ほど。冷たい風と車とを避けながら、あっという間に自宅へと着いた。

「ただいま~!」
いつもなら、母が台所からおかえり、と返してくれるはずだった。
が、
家の中は静かに、珍しく、明かりが点いていない。
暗い玄関で耳を澄ませると、テレビの音らしき雑音が聞こえてきた。
停電ではないらしい。
「ただいま~?母さん?」
靴を脱ぎ、そっと玄関を上がる。
窓から入り込む微かな月明かりを頼りに、台所へ向かう。
闇に沈んだ台所には母の気配は無かった。
「おかしいな…?母さんー?」
しんと静まり返った闇に、声が呑まれていく。
廊下を挟んで反対側に、テレビのある居間があった。物にぶつからないように慎重に廊下を進むと、居間の扉が見えた。
テレビの音が、近付く。
誰かいる。
なんだ、今日はテレビを観ていたのか。皓一はほっとしてドアノブを掴み、そっと押し開いた。
開かれた部屋の中は、水色の淡い光に照らされていた。
「母さん?」
不思議に思ったのは一瞬で、それがテレビの光だとすぐにわかった。
光に照らされた、ソファに座る二つの影。
「なんだ、父さんもいたの…ただいま…」
言い終わるのが先か、照らされた影が揺らぐのが先か、異変は起こった。

グニャリ、と首が伸びた。
「…え…?」

「こ、こここ、こういち…ちちち…」

父と思われる影が立ち上がった。
様に見えた。
ぐるり、と首がこちらを向く。その腕のように伸びた首。
夢でも見ているのか。
悪夢だ。

皓一は唾をのんだ。
「ゆ…ゆめ…」
言葉を失い、後退りする。ゴツリ、と後頭部を扉が打つ。
鈍い痛みが走った。
夢じゃない。
「母さ…」
もう一方の影に問いかける。
グニャリ。
同じように首が伸びた。
伸びて、皓一へと向き直る。
「こ…こ…いち…」
伸びた首が、皓一へと更に伸びてくる。
「う…わ…!」
後退るが、扉に遮られ進めない。

「こ、こここここ…っ!!」

皓一へと伸びた首は、壊れたCDプレーヤーの様に同じ音を出した。
その口元に、びっしり生えた牙。
「母さん…!…父さん…!!」

メリメリメリ…、と不快な音を立て、人間らしい形が無くなっていく。
影だけをみれば、父と母ではないと思えた。だが、その牙だらけの変形した口からこぼれる声は、間違いなく、父と母のものだった。

「こ、ここ皓一ちちち…」

水色の光に照らされ、何かが輝きを放っているのを皓一は見た。
滑らかな輝き。
伸びた首に綺麗に張り付いた、鱗。
ビリビリと服が裂け、異形となった姿が顕になる。
「あ…あ…ぁ…」
皓一は力を失い、その場に座り込んだ。
見知った二つの影が、瞬く間に、異形のものとなった。

龍。

本や、水墨画で見た様なカタチのものが、いま、父と母の体を四時曲げて現れた。
皓一の目の前には、破れた服の切れ端を乱雑に払う二匹の龍がいた。

「な…なんで…母さ…、父さん!!」

叫び声を上げると、二匹の龍は合わせたように皓一を見た。
鷲のような、鋭い山吹に輝く瞳。
「ひ…っ!」
皓一は口元を押さえた。
襲われる。
喰われる。
咄嗟に何故かそう思った。だが、実際は違った。

「ぎゃあああああああ!!」

皓一は、目を疑った。

父であったモノが、その鋭い牙を母であったモノの首に突き立てている。
「ギッ…アアアア…!」
狂ったように叫ぶ母であったモノは、まるでトグロを巻く蛇のように体をくねらせ、噛み付いた父であったモノに絡み付く。
その鋭い爪が、脇腹を掻く。
血飛沫が、二つの体から激しく吹き出す。
皓一は、縛られたように見ていた。その頬に、紅い飛沫。
噛み付き合う二つの影は、激しく絡み合いながら床へと転がった。
メリメリ、と音が鳴り鱗が飛び散る。
「か…母さん…やめて!…父さん…!」
どこを見ても父と母であった名残はないその二匹の龍に、皓一は叫んだ。

殺し合っている。
否。
共喰い。

「やめて…!!」
皓一は、二匹のもとへと駆け寄ろうとした。
「無駄だ」
グッ、と何者かが皓一の肩を掴んだ。
驚いた皓一が振り返ると、そこには片目を前髪に隠した、見知らぬ男がいた。
「だ…誰…!」
「あぁなってはもう遅い。お互いが死ぬまで、共喰いを続けるだけだ」
男は平然と、淡々とした口調で続けた。
その隻眼が、ちらりと二匹の龍に向けられる。
「だって…母さん…!…父さんが…!」
皓一は男の腕を払い、再び駆け寄ろうとする。
が、素早い男の指が、その腕を掴まえる。
「そんなに心配する前に、自分の心配をしたらどうだ?…紫龍?」
男は続けざま告げると、捕まえた皓一の腕に歯を立てた。
チクリと、僅かな痛みが肌を刺す。
「…えっ…」
噛まれた…!?
「なにす…!…」
掴まれ、噛まれた掌を振りほどこうとすると、相手はすんなりその手を放した。
歯を立てられただけなのに、ビリビリと、不快な痛みが掌に残る。
男は、口元を吊り上げ、笑みを浮かべている。
水色の光に照らされた、酷薄な美貌。
端正なその貌に、皓一は体の震えを覚えた。
「さぁ、お前の番だ。紫龍」
「しりゅう…?」
皓一には何の事なのか見に覚えが無かった。この男も、何者なのか、何故家の中にいるのか…。

「あんた…、だ…」
誰なんだ、そう聞こうとした。
「ギャアアアア…!!」
はっと我に返ると、床に転がった二匹の龍は、がんじがらめになりおびただしい血を流しのたうち回っていた。
皓一は、為す術もなくただ二人であったモノに駆け寄ろうとした。
「母さん!父さん!!どうして…!」
一歩、踏み出したところだった。
「痛…っ」
ジワリ、と掌に痛みが走った。
「え…?」
痛んだ手のひらを見ると、紅く残った歯の跡に、紫色の小さな輝き。
ジワリ、ジワリ、と鼓動に合わせ痛みは増していく。
と同時に、跡から吹き出すように、紫色の粒が肌を覆っていく。

紫色の、鱗。

「う…わ…!?」
皓一は、目を疑った。
痛みとシンクロするように、二枚、三枚と鱗が浮き出る。
その手の甲が、半分ほど紫色の鱗に覆われた。
「うわあああ…!?」
自分自身に起こった事を、皓一は理解出来なかった。

父さん、母さん。
龍。
男。
そして、紫の鱗。
「うわああああ!!」
頭の中で、様々なモノが駆け巡った。
父さん、母さん。
龍。
男。
鱗。

父さん、母さん…

龍…

鱗…

 


布に覆われた掌。
細い、着物から差し出された手のひら。

―――…ひりゅう、こちらにおいで…

女のひと。

顔を、半分以上布で覆っている。
優しい微笑み。

「だ…れ?…ひりゅう?」

―――…りゅう…ひりゅう…

知らない名前。
女のひと。

布の下から覗く、紅い鱗。
鱗。

全身、紅い鱗に覆われた体。


「うわああああっ!!」
皓一は、我に返った。
鱗。
女。
男。
目の前にいるのは…、

「緋龍…!!…おまえ!」

皓一の口から、知らぬ名前が飛び出した。
「!」
緋龍、と呼ばれた男の顔から笑みが消える。
「紫龍…か?」
男は再び知らぬ名前を口にした。その見えている瞳が危険な輝きを宿す。
髪に隠されている瞳がチラリ、と見えた。
先ほど見た、龍の瞳。ギラリと光る山吹色。

「お…俺…?」
口を突いて出た名前に、皓一は動揺した。
男の様子を見ると、間違いなく男の名前だったようだ。
…呼んではならなかった。
体の奥底で、何かが危険を報せていた。
「痛た…っ!」
ジワリ、と再び鱗が疼いた。
「あ、あんたなんて、知らない…!それより、あんたの仕業なんだろう!?母さんと父…」
「そうだ」
言い終わる前に、男は口を開いた。
「!…だったら、元に…」
「無駄だと言ったろう。紫龍。龍はお互いを好物とするモノ共だ。殺し合い、喰い合う…忘れたのか?」

忘れたのか?
男の瞳が妖しい光を帯びる。

―――愚かなものよ。

「なに…?」
誰かが、頭の中で語りかける。
―――私は唯一無二の存在…。

「だれ…だ!」
意識が交錯する。

―――緋龍、忘れるな。

紫色の鱗。
山吹色の瞳。

―――私はお前のモノであり、お前は私のモノだ…。
俺、のもの。
緋龍。

―――私は、紫龍。


「う…るさい!緋龍!!」
無理矢理抉じ開けた視線の先に、微笑を浮かべた男。緋龍。

鱗に覆われた掌が熱を帯びる。

パリパリ、と静電気の様に紫色の火花が爪の先散る。
「よくも…俺の…!」
緋龍、と呼んだ男に向かい、ただ身体が熱くなった。
男は、犬歯を見せ、笑っていた。
「そうだ…それでいい…」
「緋龍!!」


全身から、雷が発せられたようだった。
瞬間、振り返ると、絡み合った龍は眩い光に照らされ黒い影を壁に染み付けていた。

テレビは白く弾けた。

意識が、光と共に消えていくのを、感じた。


黒い、闇の中に、緋龍の笑みを留めたまま。


深い、深淵の中に。

 

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