『真円の月が纏うもの』 ~虜囚~

 

…チャン。

 

ピチャン。
ピチャン。

 

耳に触れる音は、どこかで水が滴り落ちる音か。

 

目を開くと、眩しい光が目を射した。
「…つき?」
満月が、天窓に浮いているところだった。

 

辺りを見回して、暗い部屋に一人なのだと解った。

 

こんな大きな天窓のある部屋など、知らない。

 

なぜ、こんなところに?
ピチャン。

 

「…?」
耳に障る水音の源を探して暗闇に目を凝らす。と、少し離れたところにゆらゆらと揺れる水面が見えた。
池。
「池?部屋の中に?」
横になっていたベッドを降り、そばに寄ろうとした。が、
「…ぅ、わっ!」
ジャラジャラ、と音を立て、足にまとわりつくものがあった。
鈍く光る、足枷。
「う…そ、だろ…?」
映画で見たような、鉄製の、鎖まで付いている。
鎖の元を辿って引っ張ると、だいたい二メートルほどの長さでベッドに繋がれていた。
「な…」
これでは家に帰れない。
家…。

 

そうだ。
あの悪夢のような出来事。父さんと母さんが…化物に…龍に。

 

お互いを喰い合って…。
自分も、同じように鱗が…。

 

鱗…。

 

恐る恐る鱗に覆われた手を見る。

 

紫色に月光を反射する鱗が生えていた。

 

「…!…夢じゃない…!」
では、あの男。

 

緋龍…は?

 

最後の記憶は、あの男があの恐ろしいほど美しい顔を歪めて笑っていたのだ。

 

そして、自分は、怒りにまかせて何かをした。
何を…?

 

光の中に消えた二匹の龍。弾けたテレビ。
笑う男。

 

ジワリ、と鱗が疼く。
「……っ、駄目だ」

 

思い出せない。
あのあと、意識を失って、この部屋に…?
「だれ…か、誰か!」
絞り出す声は、震えていた。闇の中に、吸い込まれるように消える。

 

騒いで、緋龍が戻ってきたらどうする?

 

こんなところに繋がれて。
この鱗が現れたのも、あの男の仕業に違いない。
父さんと母さんも…。

 

「俺も…龍になるのか…?」

 

ギュッと、鱗の浮かんだ手の甲を握りしめる。

 

夢じゃない。

だがまるで、悪夢だ。

眩い月の光に、皓一は目を細めた。
「くそ…まぶし…」
手で光を遮る。
まるでスポットライトだ。

「お前が望んだものだ」
暗闇から、突如声が響いた。
「…!緋龍!?」
ギクリと身体が強張る。

「どこに…?」
目を凝らすが、見えない。
「ここにいる」
ガタンと椅子から立ち上がる音が鳴り、足音が近付く。
鼓動が速まる。

暗闇から、黒い革手袋の手が伸びた。
「…あっ!」
目の前に掲げた掌を掴まれ、引きずられる。

ジャラ、と足に繋がれた鎖が音を鳴らす。

真正面に、真白な月光に照らされた美貌が見えた。
その圧倒的な造りに、皓一は息を呑む。

「な、なんで…、黙って見てた」
喉が震える。
「お前を観察していた」
「観察?」
実験台にされたネズミを皓一は思い描いた。
「今度の紫龍…お前はどんな反応をするのか」
緋龍は微笑みを浮かべている。だが、それは冷たい。
「し…、しりゅうって何なんだ。俺は知らない」
「忘れたとは言わせない。…これが証だ」
掴まれた掌を目の前に出される。
紫色の鱗がキラキラと輝きを放つ。
「紫龍。紫の鱗を持つ龍。人語を解し、人全てを統べるもの」
「言ってることが解らない!」
「解らせようか?」
男が犬歯を見せ笑った。

皓一はゾクリ、と背筋に走るものを感じた。嫌な予感が過る。

だが遅かった。

ギリ、と男は掴んだ指先に力を込めた。
鱗に、革手袋越しに男の爪が喰い込むのを感じる。
ジワリ、と疼く肌。

「…なにす…!…痛っ!!」

ドクン、と鼓動が耳の中に鳴る。

「止め…ろ…!」
目の前に出された掌に集中すると、その肌に異変が起きた。

波打つ、鱗。

鼓動に合わせ、鱗が浮き上がる。

「止めろ…!!」
もう一方の腕で、力任せにその体を押し出した。が、かわす様に男は闇の中に身を戻した。
闇の中、その髪の合間から、山吹色の片瞳が妖しく輝きを見せる。
「お前はまだ完全には変化しない」
「…やっぱり、あんたが」
「…思い出さない方が好都合だ」
「父さんと、母さんは!」
「明日、家に連れて行ってやる。…全て分かるだろう」
「明日!?分かるって、ここから出せ!!母さんと父さんの身に…っ」
何かあったら、と言いかけて留まる。

―――無駄だ。

緋龍の言葉が甦る。

「おとなしくしていろ。俺はここにいる」

暗闇の中で、再び足音が遠退き、椅子に腰掛ける音がする。


ベッドに一人残され、途方に暮れる。

こんな眩しいところで、眠れるか。
天窓の月を睨む。

―――お前が望んだ…

俺が?
俺は何も望んではいない。

眩い光に、思考が溶けていく。

何時しか、眠っていた。
気が付くと、朝になっていた。

昨夜はわからなかった部屋の構造がはっきりと見えた。

部屋の中央にベッド。その真上に四方が二メートルはある天窓。
ぐるりと囲まれた壁には窓一つ無かった。その真っ白な壁の傍らに、椅子が一つ。

緋龍が座っていた椅子だ。
「いない…」

見渡す部屋の中には誰もいなかった。
部屋の中は、見れば見るほど奇妙な造りだった。
朝陽を受けてキラキラと光る小さな池。何の為にあるのか、全くわからない。

カンカン。

音の源を見れば、小窓付きの扉が鳴っていた。
ガチャリ、と扉は開かれた。
緋龍か?

が、入って来たのは初老の男だった。続いて、使用人風の女。
「皓一様ですね」
初老の男はお辞儀一つすると、口を開いた。
丁寧な物腰だ。

驚いていると、カチャカチャと足元で音がした。見れば、女が足枷を外している。
「お…俺を逃がすの?」
「逃がす?…この足枷はあなた様を監禁する為のものではありませんが…?」
「…え?」
「…失礼いたしました、わたくしは藤沢。長年紫龍様に仕えるものです。何なりと、お申し付け下さい」
「え…?待って、それって…」
「お着替えを用意いたしました」
女が、たたまれた服を差し出す。
「緋龍様がお待ちです」
藤沢と名乗った男はそう言い残し、再び頭を軽く下げ踵を返した。
「え…?ち、ちょっと!」
「なにか?」
呼び止めると、藤沢は直ぐ様振り返る。
「俺…、し、紫龍…なの?」
藤沢は皓一の言葉を聞くなり、再び近づく。
皓一の持つ服の中から茶色の革手袋を取り出すと、皓一の右手を手に取る。鱗の生えた掌である。
「高貴な色彩…。畏れ多くも、この紫の鱗を持つものは貴方様、紫龍様の他には存在しません」
敬うように丁寧に鱗を拭うと、革手袋を被せる。
皓一は唖然としてそれを見た。
何なんだ…?

再び扉の向こうに消える藤沢達を茫然と見送り、皓一はあたふたと着替え始めた。

―――紫龍様に仕える。

「味方…っていうことか?」

自由になった手足を伸ばし、深呼吸すると、皓一は扉のドアノブを掴んだ。
廊下に出てみると、古い洋館のような造りになっていた。
掃除や手入れが行き届いているようだったが、紅い絨毯は使い込んでいられるのか踏みしめられている。
長い廊下が続いており、昨晩からいた部屋はどうやら一番最奥の部屋だったらしい。
階段を降りると、長身を黒で包んだ男が立っていた。足音に気付いたのか、振り返る。

緋龍だった。
「緋龍…」

用意された車に乗り込むと、静かに車は走り出した。ハンドルは、先ほどの藤沢が握っていた。
車窓から見る屋敷は、林の中に寂しく立っていた。
「何か思い出したのか」
「なにも。…ここはどこなんだ。あの人たちは…」
「あれはおまえの家だ、紫龍。ここの人間は、代々おまえに仕える。何不自由しないはずだ」
「俺は…!皓一だ。紫龍なんて名前じゃない」
「名前、か。紫龍は名前なんてものじゃない。おまえの魂の記憶だ」
「そんなものは知らない。俺は皓一だ」
「皓一…村木皓一、か。もう少し早くおまえを見付けていれば、手間がかからなかったものを」
「見付ける、とか魂の記憶とか!全部あんたの仕業なんだろう?父さんも母さんもあんな姿になったのも…!」

頬杖をついて窓の外を見ていた緋龍が、ふとこちらを見る。

ぎくりとして皓一は口をつぐんだ。
前髪を軽く掻き上げ、緋龍はその山吹色の瞳を晒した。
「俺はこの瞳を持っているだけだ。きっかけは、おまえがつくる」
すぐに髪が戻されるのを見ながら、皓一はその瞳の後を追った。
「あんたのその目…あんたも龍になるのか?」
皓一の言葉を聞くなり、緋龍はフッと笑みをこぼした。
「残念だが、この姿のままだ」
皓一は龍になった父母を思い出していた。
右の掌の鱗がジワリと疼く。噛まれた掌。

「…俺が龍になるのも、あんたの思うまま、なのか?」
頬杖をついたまま、緋龍はちらりと瞳を向けた。
「そう思うか?」
「だって…あんたに噛まれた痕から、鱗が」
強く触れられただけでも、波打つ様に疼いた。
「父さんや母さんも、同じようにしたのか?あんたのその手で簡単に…あんな姿に?」
緋龍が瞼を伏せる。
「…俺は実の母親まで龍に変えた」

「…えっ?」

「遠い昔話だ…」

眉間を寄せるその顔は冷たい。
だが伏せられた睫毛が、震えている様に皓一には見えた。
皓一は言葉を失って、その横顔を見ていた。

母親。

なぜか、交錯した意識の中でみた女性を、思い出していた。
紅の、鱗…。

気のせいだと、皓一は思った。自分が、知るはずもない過去の出来事だ。

だが、知っていたのだ。
この男の名前を。

他にも…。

だがぼんやりと霞がかかって、それが何なのか、思い出せない。
皓一は藤沢を見た。
何も言わず、ただハンドルを握る藤沢は、どこまで真実を知っているのだろう。
紫龍と呼ばれる自分を、待っていたのか?
黙って、緋龍と共に、自分を探していたのだろうか?
緋龍。

龍と同じ瞳を持つこの男は、人間なのか?


皓一は、思考に浮かんだ疑問を、無理矢理打ち消した。

紫龍と呼ばれる自分さえ、人間なのか、疑わしいからだ。

 

どれほど走ったのか、言葉もなく、皓一は窓の外を見ていた。

見覚えのある光景が、広がり始めた。
県境を越えて、皓一の住んでいた町へ入ったのだ。

学校。
無断欠席だ。この先、通えるのかさえあやしいが。

バイト先。
最後に会ったのは、店長だ。


現実感が、無い。
透明な壁に遮られたような孤独感が皓一に押し寄せた。


家に、着いた。
藤沢が開いたドアから降りると、家は、静かにそこにあった。

藤沢が胸ポケットから、光るものを取り出した。そしてそれを、鍵穴に差し込んだ。

鍵だった。

「どうして家の鍵…!」
  驚いて声を上げると、藤沢は、素早く振り返る。
「お静かに。…さ、どうぞ」
玄関を開けた藤沢は皓一に中へと入るように促す。
が、皓一は、その場に佇んだ。
惨状が、甦る。
「始末は、済んでおります」
藤沢が口を開いた。
「始末…?」
皓一は言葉に引き戻されたように、家の中を見つめた。

静寂。

龍になった二人が、絡み合っている気配は無い。
『始末』という言葉が、皓一を動かした。

「父さん…?母さん!」
あの現場。居間へと、靴も脱がずに走り込んだ。

「父さん…!」

そこには、ソファとテレビ、見慣れた光景が、あった。
激しく飛び散った、血の形跡も無い。
「夢…?」
かと、皓一は今一度思った。

願った。

「お二方のご遺体は藤沢の墓へと埋葬致しました」

遺体。

「い…遺体って、体は…」
「龍に変形したとはいえ、その組織、血液はヒトと同質。勝手ながら、この場は形跡を消させていただきました」

皓一は、胸に溢れるものを感じた。
視界が霞む。
ただ茫然と立ち尽くしていると、キラリと輝くものが目についた。
「…!う…鱗…が」
そばに寄れば、小指の爪ほどの一枚の白い鱗だった。
闇の中、テレビの水色の光を反射していたのは、二人の白い鱗だった。

「落ちておりましたか。申し訳ありません」
藤沢が頭を下げる。

「緋龍…あんたがここに来たのは、何のためだ」
一枚の鱗を握りしめ、緋龍へと向き直る。
緋龍は、静かに皓一を見下ろしていた。
「お前の、村木皓一の記憶を、二人から消す為だ」
「消す…?消すために命まで…?」
怒りで声が震える。睨み上げるが、緋龍は顔色を変えず、皓一を見返す。
「そこへ、おまえが帰ってきた」

帰ってきた。

「俺…?」
「俺は二人に暗示をかけていた。そしてそこに、紫龍、お前が現れた」
「…まて…待てよ、俺が現れると、何かまずいのか!?」

緋龍は隻眼を細めた。

「家中の電気回路がショートしたのは全てお前がやったことだ。紫龍。あの時、照明が消え、異常をきたしたテレビがついた事で俺はお前が帰宅した事を知った」
「あれは…緋龍、あんたが…」
「違う。忘れたのか?紫龍、お前の力は…」
「そんなもの知らない!…なあ、俺は…っ!」
「二人の記憶からお前を消せば済んでいた。二人の中の記憶を起因に、俺のこの瞳が、龍に変えた」

「やめろ…!」

二人の中の、俺の記憶…。
「言ったはずだ。きっかけはおまえがつくると。俺は、因子を持つ者を龍に変える。その前に、お前を知るものから、お前を消すしか、術は無い」

いつの間にか握りしめた鱗は、革手袋の中で粉々になっていた。

「俺は…どうすればいい。この先、どう生きていけば…!」

「あの屋敷に」

緋龍の言葉が、あの部屋と足枷を甦らせる。
「皓一。おまえの前の紫龍が、望んだことだがな」

幽閉。

それも、自ら望んだ。

「俺は…」

革手袋がギリリと音を鳴らす。
皓一は、緋龍の瞳を、ただ見つめた。


どこにも行き場がない。
自分という存在がいる限り、誰もが龍に変形する可能性がある。
自分という存在と、緋龍の瞳…。

事実を突き付けられた皓一は、静かにドアを開く藤沢の車に乗り、屋敷への帰路へ着いた。

終始無言の皓一を緋龍が見つめていたことさえ、わからなかった。
屋敷へ着くと、表玄関の扉が勢いよく開かれた。
飛び出してきたのは、皓一と同じか、少し年下に見える少女だった。
「お父様…!」
満面の笑みで車に駆け寄る少女に、藤沢は困った顔を見せた。
「芙蓉、この屋敷へ来てはならないと、何度も言ったろう?」
「だって…ここには緋龍もいるし、紫龍も見つかったって、…えっ!」
驚いて見ていた皓一と目が合うなり、芙蓉と呼ばれた少女は目を輝かせた。
「ウソっ、そこにいるのが紫龍なの?私と同世代?…可愛いタイプじゃない!やった!」
窓一枚隔てた外でキャーキャーと騒ぐ芙蓉に皓一は絶句した。
緋龍を振り返ると、冷たい顔が少し緩んでいるように見えた、気がした。
「芙蓉、紫龍様になんてことを」
藤沢が顔をしかめ窓から引き離す。
「あっ…いいんです。俺は」
慌てて車から降りると、少女はニコリと笑った。意外と背が高く、皓一よりも僅かに高かった。
「よろしく、紫龍。…えーと、名前は?」
「皓一。村木皓一」
「皓一ね!私は芙蓉。藤沢の一人娘よ。よろしく」
転校生になった錯覚を皓一は覚えた。
「緋龍様…?」
藤沢は緋龍を顧みた。
「かまわない。藤沢の血をひいているのだろう。気にするな」
一言残し、緋龍は屋敷の中へと入って行った。

藤沢の血をひいている?

緋龍の言葉に疑問を抱いた皓一だが、芙蓉の言葉に、それは吹き飛んだ。
「ねぇ、緋龍って素敵よね!」
「うん…、え?えっ?」
「やっぱりそう思う!?実は私の初恋の人なの。でもフラれちゃった」
「い、いつの話…?」
「10才頃よ。『俺には紫龍しかいない』って真面目に言われたのよ!悔しくて…私待ってたの!あなたが現れるのを!!」
興奮した芙蓉の肩を、ぽんと藤沢が叩いた。
「風邪をひく。紫龍様も、さ、屋敷へ…」
「お父様!今の話!!」
「知っていたよ」
真っ赤になって芙蓉が顔を押さえる。
「緋龍が話したのね!」
「おまえから聞いたんだよ」
「え?私、話した!?」
「泣きながら話したじゃないか。『紫龍さまより可愛くなってやる!』と」
皓一は堪らなくなって吹き出した。

普通の親子じゃないか…。
「皓一?なに笑ってるの!」
芙蓉が頬をつねる。
「いた…っ」
「芙蓉!やめなさい」
「藤沢さん、いいんです」芙蓉に肩を抱かれて、皓一は屋敷へと入った。
「屋敷の中は案内された?」
階段をのぼりながら、芙蓉が振り向く。
「え。まだ…いいの?」
自分が、幽閉される為の屋敷なのに。この少女は知らないのか。
じっと芙蓉を見つめると、その口元が不敵に笑った。
「え」
「…大丈夫よ。あなたは私が守る。…紫龍様」
「え?…芙蓉?」
突然変わった口調に狼狽えていると、芙蓉はころころと笑った。
「何も知らないのね。自分のこと。…ここよ」
芙蓉の開けた扉をくぐると、先程の真っ白な部屋とは対照的な黒い壁に囲まれた部屋だった。

「緋龍」

芙蓉は大きな窓へと声をかけた。その窓辺に、椅子に腰掛けた緋龍がいた。
「えっ、こ、ここ、緋龍の部屋?」
慌てて外に出ようとするその手を、芙蓉が掴んだ。
「大丈夫」
コソッと芙蓉が耳元にこぼす。
「でも…」
頬がピクリとひきつる。
「万が一の事があったら、ここに来るのよ」
「万が一って?どうして…緋龍のところに?」
「あなたを守るためよ」
「守る?…誰から?」
芙蓉はにっこり笑うと、緋龍に手を振った。
芙蓉の肩越しに見る緋龍は片手を上げ、再び窓の外へ視線を向けていた。
緋龍の部屋は、階段を上がったすぐにあった。
紫龍の部屋とは対局に位置している。
廊下を進む芙蓉の後ろ姿を見ながら、ふと不思議に思った。
「あの…さ」
「なに?」
「緋龍って、いくつなんだ?」
芙蓉は歩みを止め、振り返る。
「私が物心ついた時には、あの姿だったわ。それから、老ける様子も無いわね」
「…年をとらない、ってこと?」
「いつから、なんて知らないけど、よく昔話を聞いたわ。父様よりも昔のことを知ってる」

あの緋龍が話を…。


―――遠い昔話だ。

あの横顔を皓一は思い出した。

「仲がいいんだね」
「ふふ、皓一は?あなた待たせていたのよ」
「俺は…」

仲がいい、どころの話じゃ無かった。
顔色の変わった皓一を見ながら、芙蓉は笑った。
「まあ、不器用なのよ。早く思いだしてあげて」
「…それなんだけど…」

記憶が無い方が好都合だって、言っていた…。

言い出せずにいると、芙蓉が額に指を当ててきた。ぐい、と圧される。
「大丈夫よ。大丈夫。この私を振った理由なんだから」
10才の少女に愛を告白される緋龍を想像した。
皓一は再び吹いた。
「わっ笑うことないじゃない」
「ごめん。…芙蓉は…ここには長いんだね」
「たまに遊びに来るのよ。でも今日からはべつ。毎日来るわ」
「うん、そうしてくれると…」
幽閉も、苦じゃなくなる。

 

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