『真円の月が纏うもの』 ~記憶~

 

夜になった。

 

芙蓉はなぜか紫龍の部屋へ入ることはなく、自宅へと帰った。

 

皓一は一人、ベッドに横になり、足枷をはめる時を静かに待っていた。
小さく欠けた月が、皓一を見下ろしていた。
冷たい光が、皓一の瞳を刺す。

 

緋龍の冷ややかな美貌を、皓一はなぜか思った。

 

似ている。
佇んだ姿。白い肌。
静かな狂気を潜めた瞳。

 

目を閉じると、芙蓉に向けられていた僅かに緩まれた顔が、浮かんだ。

 

…俺には向けられる事の無い表情。

 

どちらが、本当の緋龍なのか。

 

毎夜欠けていく月のように、どちらも、あの男の本性なのだろうか。

…わからない。

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……
…ここは、何処だ?


暗闇のなか、俺は手を伸ばした。

誰か、いる。

髪の長い…。
白い着物姿の…。

俺は、その腕を掴んだ。

男だ。

その男は、逃げようともがく。
その顎を捉え、強引にこちらを向かせる。

白い肌。漆黒の髪と、同じ色の瞳。

そして、山吹色の瞳。

…緋龍…!

それは間違いなく、緋龍だった。
恐怖に見開かれた、異なる色彩を持つ二つの瞳。

そして、俺は、その胸元に手を伸ばした…。


「やめろ…!」

宙を掻いたところで、目が覚めた。

胸で、息をしていた。
額から汗が流れる。


…俺は…何をした…?

恐怖にひきつった瞳。
見たことのない表情。

だがあれは、緋龍だった。

「…どうした」
暗闇から上がる静かに低い声。

緋龍。

…いたのか。

「なんでも…。あんたが、夢に、あんたを、俺が…」
言っている事が滅茶苦茶な事は解っていた。
が、
緋龍は、ベッドサイドまで近寄ってきた。
「夢を見たのか」
「み…見た。あんたを、掴まえる夢だ。掴まえた俺は、あんたを…、…っ!?」
言い終わる前に、突如緋龍の細くしなやかな指が、皓一の首を掴んだ。
力強く、締め上げるように。
「…あっ、…か…はっ!…やめ…っ…」

極限まで締め上げては、弛められる指。

瞳を開いた。
真正面に、怒りに彩られた緋龍の瞳。
影を落としたその恐ろしいほどの美貌に、皓一は言葉を失った。
「思い出したようだな。皓一。…いや、紫龍」
押し殺した声が、耳元に注がれる。
「わ…わからない…っ、俺…はっ…夢を…っ」
緋龍が、低く笑う。
「教えてやろうか?その夢とやら」
「なに…っ?…ぅあっ…」
力任せに、ベッドへと押し付けられる。皓一は、その影の様な長身がベッドに上がるのを見た。
首を絞めていた指が弛められる。同時に、天窓を支配していた月が、闇に呑まれた。

緋龍の影によって。

 

…教える?なにを…。

解放された気管支に、酸素が流れ込む。
身を捩るように空気を求めると、その肩を掴まれ強引に身体を上向かされた。
「なに…す…」
言葉も切々に、逃れられぬ力強いその指をほどこうともがく。
仰け反った首筋に、冷たい何かが触れた。

緋龍の、唇だった。

チクリ、と憶えのある痛みが肌に伝わる。
「…!」
右手の鱗が、熱を帯びる。
「憶えていないとは言わせない。これはおまえが教え込んだものだ…紫龍」
言って、緋龍の手が、皓一の腹部へと滑り込む。
撫でるように肌を滑り、即腹部に留まると、その爪を立てた。
「痛…っ、緋龍…?…ひりゅ…っ」

何をしたのか。
何がこの男の気を損ねるような事をしたのか、皓一には理解出来なかった。

胸元にかけられた指が、釦を弾く。
男のしなやかな指が、乱雑に皓一の身体を暴いていく。
皓一にも、その行為が理解できた。

「!…やめ…っ、緋龍、どうして…!」
緋龍の指が、皓一の顎を捉える。皓一は、喘ぐ様にその瞳を見返した。
「おまえの身体は俺の思うままだ。…紫龍」
山吹色の瞳が、す、と細められる。
「…この肌を、全て鱗に変えてやってもいい。…今すぐにでも」
頬を撫でる指が、降りてシーツを握る。
その拳が、震えるのを皓一は見た。
「俺は、待っていた。いつかおまえを支配する日を」
異なった色彩を持つ瞳は、皓一を見てはいない。

…いま、見ているのは俺じゃない。

決して。

皓一を見てはいなかった。
緋龍の指と唇は容赦なく皓一を支配した。
皓一が僅かに抵抗を見せれば、緋龍はその喉元に噛みついた。
喉仏を噛み、鎖骨、露になった肋骨へ、それは下りた。

与えられる行為は、快楽とは遠く離れたものだった。

意図されて、それが緋龍の意思によるものだと、皓一には分かった。


言葉さえなく、捕食と獲物の関係が暗闇に描かれた。


緋龍の髪が肌を滑り、皓一は堪えられず仰け反った。
「…っ、ひりゅ…う…」
背に回された指が、強く肌を掻く。
「…っ…」
伏せられた皓一の瞳が天窓を仰ぐ。
半分以上天窓から隠れた月が、時を静かに報せていた。


…俺を、見ていない。

その瞳ではなく、緋龍の全てが。

…俺じゃない。

「…緋龍…」

 


扉の閉められる音がした。

ベッドに身体を投げ出したまま、皓一はうっすらと瞼を開けた。
天窓からこぼれる紫の光が、皓一の肌を白く照らしている。

…朝だ。
皓一は目を瞑った。

その暗闇に緋龍の瞳が浮かぶ。

険しい、獣の瞳。

…俺じゃない。

自分ではないものを、緋龍は貪るように掻き抱いた。

「…痛て…」
身体のあちこちが痛んだ。ほとんどが、噛み傷と掻き傷だった。
よろよろと起き上がると、足枷がされていない事に気付く。

…それどころじゃ無かったってことか。

ぼんやりと、皓一はベッドを降りた。
散らかった衣服を抱き上げる。新しいものがくるまで、とりあえず着ておくしか無かった。

羽織って、シャツの釦が、千切られている事に気付く。
何処かへ飛んでしまったのか、見当たらない。

溜め息を一つ吐くと、視界がぼやけた。
足元がふらついた。
だが。

いま、自由だ。

藤沢が、来る気配もない。…そうだ。
…逃げ出してしまえばいい。

視界が揺らぐ。
見慣れてきたばかりの長い廊下が、グニャリと曲がる。

誰が龍になろうと、関係無い。


漆喰の壁に、皓一は手を突いた。
あと少し。

階段が見えた。

その前に、緋龍の部屋。

―――万が一のとき。

誰が、守ってくれるというのか。
皓一は、笑いが込み上げるのを感じた。

…万が一?


その万が一の救いが、あの仕打ちか。

 

緋龍の部屋を通り過ぎる。
廊下が途切れる。
階段へと足を躍らせる。

意識が、その虚ろな笑いから哀しみへと変わるように、


静かに、途切れた。
 

 

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