『真円の月が纏うもの』 ~記憶2~


 

「…う、私は……ない!」

 

 

 


…誰か、言い争っている?

「芙蓉、おまえにしか出来なかった」


…低い声。

…緋龍。


「だから…!こんなために皓一を探したわけじゃない…!」

…芙蓉?俺が、なに?
「緋龍、あなたがこれ以上皓一を……皓一?」

重い瞼を上げると、芙蓉の横顔が見えた。その顔が、こちらを見る。
「皓一…!」
「芙蓉…来てくれたんだ」
視界の片隅に緋龍の影が映る。静かに、それが離れていく。

…緋龍。

「…?」
見上げた天井は黒く、天窓は見当たらない。

「…芙蓉、ここは?」
「緋龍の部屋よ。あなた階段から落ちるところだったの。それを緋龍が…緋龍…」
芙蓉は唇を噛んだ。顔を赤く染め、その目には涙が浮いている。
「芙蓉…どうしたの」
「どうしたじゃない!…緋龍は…あなたに…っ…」
涙を拭おうとしたその指を芙蓉は掴まえる。
「泣かないで…いいんだ、俺なら」
「よくない…!私のせいなの!あなたのお父様と、お母様が亡くなったのも…私が…夢を…それだけじゃなく…あなたまで…!」
一気に吐き出した芙蓉はそのまま泣き崩れた。小さなその手は震えていた。

…母さんと父さんが、なに?

「どういうこと?芙蓉?」
「私が教えたの!夢を見て…緋龍に、紫龍の事を、あなたのことを」
「俺のこと?」

「…紫龍。芙蓉はいくつに見える」

緋龍が口を開いた。見れば窓辺に立ち、逆光でよく見えない。

「え…?」
「緋龍!」
「今年で36…だったか?…芙蓉?」
芙蓉が、36?

「そうよ!それがなに?」
「はは…見えないよ、芙蓉」
芙蓉が、こちらを見る。
どこからみても少女だ。
「紫龍、芙蓉はおまえが血を分け与えた人間だ。おまえが許さぬ限り、老いる事も、死ぬ事も無い」

…俺が、血を分け与えた?
「緋龍、その話は私が…」
「…そうだったな。芙蓉」
ギュッと芙蓉が、手を握りしめた。
「皓一、わたし…化物なの。死なない、人間ではない…の」
…死なない?

「俺が?…血を?」
「皓一じゃない。正しくは前の紫龍に…」

「芙蓉…昔の紫龍に会った事が…?」
起き上がると、芙蓉は震えるようにうなずく。
「会ったわ」
「え…どんな人だった?」
その首が横に振られる。
「わからない。…龍だった」
「え…」
「死にかけの龍だった。彼は、もう人の姿をしていなかった…!」

人の姿をしていなかった。
咄嗟に緋龍を見た。光の中に細長い影。
「まさか…?ひ…」

言いかけて、喉が詰まった。
「私に血を与えた紫龍は死んだ。最期の時を…私は見たの。皓一。私は…」

コンコン

芙蓉の言葉を遮るように扉がノックされた。

「緋龍様、紫龍様のお姿が」
藤沢の声が響いた。切迫した声。

「開けてかまわない。紫龍ならここにいる」
ガチャリと扉が開けられ、藤沢の姿が現れる。
「…芙蓉!ここにいたのか。来なさい、こちらは緋龍様の部屋だ」
藤沢は足早に近付くと芙蓉の肩を掴み立ち上がらせる。
「いや!まだ話が…」
「話なら緋龍様がして下さる。お前の出る幕ではない」
「緋龍を信じてはだめ!…皓一、早く思いだして。あなたまで…」

失いたくない。

泣き叫ぶ声が、扉の向こうに消える。
部屋に残されたのは緋龍と皓一だけになった。
しんと静まり返った部屋の空気が、耳を圧迫した。
「紫龍に血を与えられた人間はどうなるんだ」
皓一は眩しさを堪えその影を見た。
「…藤沢の人間は祝福と呼んだが…実際は呪いだ」
「…?年をとらないのは芙蓉だけじゃないのか?」
「目覚めたのは芙蓉だけだ」
「目覚めた…?」
緋龍の輪郭が光の中から現れる。ベッドへと近づいてくるのを皓一は真正面から見据えた。
「今から約三百年前、お前は藤沢の始祖と出会った」
「三百…?」
「お前は死にかけていた藤沢の人間に、その血を分け与えた。怪我や病を癒す力だ。藤沢の人間は喜んだ。喜び、お前を崇拝し、付き従う事を誓った…」
ベッドサイドへ近づいた緋龍はその端に腰を下ろした。皓一は目を逸らさすにその瞳を見返した。
「藤沢の人間は長寿を全うし、皆人間らしく死んだ。だが、違うものも現れた」
「それが芙蓉のような、年をとらない人間か?」
「そうだ。だが、芙蓉は違う。目覚めた後にもう一度お前の血を与えられた」
「与えられると、どうなるんだ?」
皓一の言葉に、ふと緋龍が笑う。
「お前のことだ。お前が思い出せ。芙蓉を思うなら」
できぬ事と解って、緋龍は笑っている。皓一はベッドシーツを握りしめた。
「思い出したのは、昨夜の夢ばかりか…」
緋龍がふと呟いた。
皓一は、はっと身を固くした。いま自分は、緋龍のベッドにいる。
一瞬にして、昨晩の出来事が脳裏を駆け巡った。
「え…っと、俺…」
青いのか赤いのか、皓一は判らないまま顔を伏せた。
早くこの場を去らなければ。思いばかりが先走り、皓一は狼狽えた。
「俺、芙蓉に…!…っあ?」
話がある、と言いたかった。が、最後まで言えずに終わった。
勢いよくベッドを起き出したが、クラリと目が眩んだ。
倒れる。
スローモーションのように全てが傾いていくのが見えた。
「…っ」
意識が薄れる。
絨毯の敷かれた床が近付く。

しかし、痛みは無かった。
「相変わらず、身体が弱いな。紫龍」
耳元に、緋龍の声が響いた。
「ひりゅ…う」
胸元を緋龍の腕が支えていた。
「相変わらず、ってなんだよ。俺の何を知って…」
「知っている。何もかも」
その細い指が、目元に宛がわれる。創り出された暗闇に、何故か安堵を覚えた。

辛辣な凶行を与えた指とは思えなかった。
 

 

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